【知道中国 1044回】                       一四・三・初四

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島19)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

北京の名勝の1つである天壇に出かけた中島は、「曇りの日の天壇をゆっくりと歩きまわりながら、しきりに歴史を感じ続けることができた。ここにも、日本では想像がつかないような規模の大きさがある。とても半日ぐらいで見てしまえるものではない」と、大感激の態である。

 

天壇とは天(聖)と地(俗)を結び、皇帝が自らの正統性を天から授かる至聖の場。共産党の歴史観に立てば、打倒すべき封建王朝が人民を搾取・酷使して造った建造物だ。絶対聖である天の子たる天子(=皇帝)の絶対不可侵の権威を内外に誇示するためには、やはり「日本では想像がつかないような規模の大きさが」必要となる。天壇で天を仰いで報じてこそ地上における唯一絶対者としての権威が付与され、地上の俗世界における統領にすぎなかった人物が皇帝という絶対聖の存在に自らを“昇化”させることができる――天壇は歴代皇帝が自らの正統性を主張するために必要不可欠な政治的演出装置だった。ならば共産党は自らが絶対真理と称する唯物史観に基づき、封建制の“残滓”であり、人民の歴史にとって“恥ずべき遺物”であるはずの天壇を破壊し、トットと地上から消し去るべきだったが、誇示する。ならば「しきりに歴史を感じ続けることができた」と綴る中島は、天壇に如何なる「歴史を感じ続けることができた」のか。敢えて問い質したいところだ。

 

天壇を歩いて、「ここでもすぐに気づいたことは、遊びに来ている人間の多いことであった。もちろん、雑踏するという感じではないが、楽しそうに漫歩する人々が、いたるところにいるのである。青年男女が多い。子どもづれの工員らしい人がいる。そうかと思うと、比較的人の少ないあたりには、たった一人で静かに環境を楽しんでいるらしい老人の姿も見える」と目に映った周囲の風景を記した後、「壮年や青年の人々は、休暇の日をここですごしているのであろう。いかにも平和な空気である。酔っぱらいもいないし、もちろん、けんかなどはどう考えても起こりそうにない。他人を疑うようなけわしい目つきにも出あわない。わたくしは、率直に、ここにも学ばなければならない重要なものを感じた」と感想を続けた。

 

考えてみると、当時は反右派闘争の真っ盛りだった。ならば誰もが闘争に動員されていただろうし、ましてや「青年男女」には天壇などで「楽しそうに漫歩」している暇などなかったと思える。社会全体が反右派闘争で殺気立っていたにもかかわらず、「いかにも平和な空気である」とはオカシイ。「酔っぱらいもいない」というが、当時の中国で昼の日中から酔っ払っていられるほどの勝手が許されたのか。「難得糊塗共斉酔(バカを装うために酔おう)」ともいうが、やはりバカを演じられるほどに羽目を外すことは許されなかったはず。

 

おそらく当時の北京は、金王朝三代の恐怖政治が支配する現在の平壌と同じく政治的ショーウインドーだったに違いない。だから「遊びに来ている人間」「楽しそうに漫歩する人々」「青年男女」「子どもづれの工員らしい人」だけでなく、ましてや「一人で静かに環境を楽しんでいるらしい老人」すら、「いかにも平和な空気であ」り、「けんかなどはどう考えても起こりそうにな」いことを演出するために配されていたとしか考えられない。

 

「他人を疑うようなけわしい目つきにも出あわない」と特記するが、やはり心ここに在らざれば、見ても見えず、聞いても聞こえず、ということだろう。

 

実際は「他人を疑うようなけわしい目つき」の公安が、中島に気取られないように監視の網を十重二十重に張り巡らしていたと思える。要は彼が、それに気づかなかっただけだ。いや気づいていたとしても、そんなことは断じて記せない。それというのも、「いかにも平和な空気」に包まれた北京を日本に伝えることこそが彼の任務だった、だろうから。《QED》