【知道中国 1070回】 一四・四・念八
――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野13)
「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)
中野も「カメラを持ってはいたが、それはふたつ目玉のやつで重くてごろごろしてかなわない。フィルムも十二枚分しかはいらない」。そこで宮本顕治が持つ「両手でつかんで眼のところへ持ってきてやるのを借りてきた」。だが、いったい「どうやって使うのか、どうフィルムを入れるのか私はひとつも知っていない」と告白している。これでマトモな写真が撮れたのか。なにはともあれ、「ふたつ目玉のやつ」やら「両手でつかんで眼のところへ持ってきてやるの」やら、確かに時代を感じさせる表現で微笑ましいかぎりだ。
上海の復興公園で食事をしている時、一人の男に声を掛けられる。「訛りのある日本語で」、「話ははっきりしない。だからといって、私の方から根ほり葉ほりすることもできない。そうさせぬようなものがあった。結局のところ、この人は日本電気の設計にいた広田功という人だということがわかったが日本人ではなかったかも知れない」という。ならば台湾の出身だったのか。
この広田なる人物が、どのような動機で中野に話し掛けてきたのかは不明だが、「『松前重義さんは元気でいますか。』というようなことをいう。/『日本電気の連中が、広田はどうしているかと訊くようなことがありましたら、結構元気でやっているらしかったと言っておいてください。』というようなことも」口にした。
松前重義といえば、戦争中に東條首相を批判したことで高齢ながら召集され戦地に送られ、戦後は社会党代議士を経験し、東海大学を創立した松前重義のことだと思う。だが、見ず知らずの中野に松前の話を持ち出した理由は何なのか。また日本電気の連中に自分が「結構元気でやっているらしい」と伝言を頼むのは何故なのか。
中野の訪中は45年の敗戦から12年、49年の共産党政権成立からは8年が過ぎている。戦争に敗れても帰国せず(あるいは帰国できず)、そのまま共産党政権になっても中国に留まった日本人も少なくなかったと伝えられるが、かりに広田もそのような日本人の1人であったとしたら、あるいは懐かしさの余りに、偶然に目にした日本人に声を掛けてきた。その日本人が中野だった、とも考えられる。
だが、かりに中野の監視役であったとしても構わないが、広田が翌58年から始まる大躍進という名の飢餓地獄や、66年からの文革をどのような思いで過ごしたのか。活き抜けたのか。はたまた犠牲になったのか。いずれにしても、日中関係の激動の歴史は、多くの名もなき日本人を翻弄したことだろう。
中野は杭州の街を歩く。「主席 毛沢東」の名前で出された「一九五二年六月二十六日」の日時が付された額縁入りの「革命犠牲/軍人家族 光栄記念証」を見て、この内容を筆写する。ここでいう「革命」とは朝鮮戦争のこと。犠牲者家族への感謝状だった。
「たしかにこれは、一九四五年までの戦争とは別のものだった」。「あの戦争で日本は敗北した。そして新しい日本ができた。あるいはできた筈だった。それから五年して朝鮮戦争がおこった。あのときアメリカ軍の司令部は日本にあった。日本はアメリカ軍の直接の基地だった。抗美援朝の中国志願軍のひとりとしてこの店の息子が出かけて行き、こうして戦病死してしまったとすれば」と考えた後、「日本とアメリカ・アメリカ軍との関係、アメリカ軍と朝鮮軍ないし中国志願軍との関係からすれば、ことは第二次大戦後の、第二大戦での日本の敗北にもかかわらぬ新規の日本の犯罪ということになるだろう」と綴る。
中野は、朝鮮戦争の際に「アメリカ軍の司令部は日本にあった」から、中国の兵士の死は「新規の日本の犯罪」と言いたいのだろうが、バカも程々にしてもらいたいものである。こういうバカ話を真顔で綴る中野のバカさ加減に、ほとほと呆れ返るばかりだ。《QED》