【知道中国 384回】                      一〇・四・念七

――やはり、問題は「利害關係」である
『支那風土記』(米内山庸夫 改造社 昭和14年)



 著者(1888年~1969年)は青森県七戸町の産。岩手県立福岡中学から明治41(1908)年に第8期生として上海の東亜同文書院に入学。卒業後は外務省に入省し、辛亥革命勃発直前の1911年6月に外務省留学生として北京の日本公使館に勤務。以後、広東・済南・ハイラルなどの領事を歴任する傍ら、中国各地を歩き回り、「支那の庶民生活」を体験し楽しみながら膨大な旅行記・報告・記録を残している。加えて古代鏡の収集家であり、陶磁器研究の世界的権威。いわば欧米の外交官にとって理想とされる学者的外交官だった。

 この本は、「大正十四年暮から昭和三年まで、満二年と四箇月、済南に在勤し、また昭和三年夏から同七年夏まで、満四年間、杭州に在勤した」彼が、「江南江北を廻り歩いて、風物を尋ね人情を察し、齊の古都を訪れては、栄枯盛衰定めなき世のさまを偲び、さうして折に觸れ、物に應じて、ひとりで考えてゐた。その見聞感想をまとめた」ものである。

 各地の風物に溶け込んで存在する名勝古跡の描写は見事というしかないが、興味深いのは彼が身をもって体験・体感したことから導き出された中国人論だろう。

 彼の家で働いていた花匠(はなつくり)を、「この支那人の花つくりは、花の苗の元気な間は、至極その花に従順であり忠實であるが、花が一旦弱ると、もう振り向いても見ない。虐待さへする。この花匠は極めて善良な男で、文字そのまゝに忠僕であつた。弱つたものを虐待するのは、決してこの花師個人の心ではなく、一の國民性と私には考へられた」と、「弱つたものを虐待する」という国民性を指摘する。つまり、絶対に弱味を見せるな。

 また「その人々の生活は、利害で始まり、利害で終わる」と、彼らの生活が利害関係に色濃く支配されていると指摘した後、「利害關係があれば親友、利害關係が無くなれば他人、利害相反すれば敵だ」と続け、さらに「利害が錯綜する限り、何時親友が他人となるとかもわからず、何處に敵があらはるゝやも知れず同志の人々にさへ油斷も隙もあつたものではない。政治にたづさはるものにとつては殊に然り。だから、政治家は、一旦政權を手に握つたら、一族郎黨で身のまはりを固める。それでなければ安心出來ないからである」
 こんな中国人とは異なり「日本人は他人に對して誠にぶつきら棒であり、しかし近づけば近づくほど親しみを覺えるが、支那人は損することさへなければ、あかの他人に對しても、一見舊知の様な顔をし、また面子のためには利害を忘るゝ風を裝うたり、策略のためには親友顔をして敵をおびきよせたりする。・・・(当時周知の実例をいくつか示した後)殺さるゝものも殺さるゝ理由があらう。佛のやうな顔をして極端に慘忍なことをやる様にみえるが、その慘忍も總てが利害關係から起つて居るのである」

 では、このように「油斷も隙もなく、恐ろしいほど、深刻複雜な」人間関係を逞しく生き抜く中国人にどう対処すべきか。日本人が「直情徑行で支那人にぶつかつたら、喧嘩、戰爭のほかは必ず負け、一本調子で支那人に對したら、恐らく最後のどたん場で背負い投げを喰はされるであらう」。彼らは鷹揚で愉快で決して残忍ではなく平和を愛する国民だが、「それを血みどろにさせるのは、正に利害關係である。恐るべきは利害關係だ」と結ぶ。

 ならば彼らと「利害關係」を持たないこと。つまり没交渉にして遠くから眺めているのが最善の策。日米中関係正三角形論、友愛外交、東アジア共同体、日中共同の海、人民解放軍野戦軍司令官・・・迎合と諂いは相手を居丈高にし、増長させるだけだ。  《QED》