【知道中国 1046回】                       一四・三・初八

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島21)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

1958年2月12日、中共中央と国務院が「四害を除き、衛生を講ずることに関する指示」を決定し、翌日の『人民日報』が大々的に報じる。同紙は、ハエと蚊は病原菌の媒体であり、鼠と雀は食糧に損害を与える農業生産の大敵である。「疾病を根絶し、人々を奮い立たせ、生活習慣を改め、国家を改造する」ことを目的に、数年内に「四害」、つまりハエ・蚊・鼠・雀を全面的に撲滅し、全国の衛生状況を大いに改善しよう――と呼びかけた。

 

かくて直ちに全国規模での新たな運動が熱烈に、かつ滑稽なまでに展開される、「人人動手 消除四害」のスローガンが掲げられ、老いも若きも男も女も総出でハエ叩き、殺虫剤噴霧器、ネズミ取り、パチンコを手に街頭や田畑・野山にまで飛び出し、「四害」撲滅に狂奔したのだが、程なく悲喜劇が演じられることになる。その典型が雀だった。

 

党と政府の厳命に従順に従い、全国民が余りにも徹底して雀を駆除してしまったことから、害虫が大量発生する異常事態が生じてしまった。大失政である。だが害虫にとっては願ったり叶ったり。共産党政府が人民を大動員して天敵の雀を駆除してくれたおかげで、心置きなく子孫繁栄に励んだ。猛烈な繁殖だ。害虫からするなら共産党サマサマだったろうが、人民にとっては死活問題だ。成長中の農産物も貯蔵した穀物も大量に食い荒らされてしまった。当局は大慌てで益鳥であることを認め、雀の“冤罪“が晴れることになる。

 

ここで奇妙に思うのは、中島が「中国にもたしかにハエはいた。しかし、全日程を通じて、三びきのハエを見ただけであった。旅客機の中で発見した一ぴきのハエを、中国の衛生に対する一つの貢献として、わたくしは遠慮なく圧殺した」と胸を張ってから、中共中央と国務院が「四害を除き、衛生を講ずることに関する指示」を発するまで、3ヶ月も経っていないということだろう。

 

「全日程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」との中島の言い分を信ずるなら、ハエが人民の日常生活の衛生面において異常な悪影響を与えるほどに極めて短時間のうちに爆発的増加をみせたということになる。そうでなければ、中共中央と国務院が「四害」の完全撲滅を宣言するわけがない。

 

ハエの1例をとっただけでも、この始末だ。ならば、前回に挙げた道路新設工事で立ち退きに絡んだ「近代的で便利なアパート」にしても、住民の公徳心、公衆便所や市街の清潔さにしても、やはり眉にツバしなければならない。もはや真面目には付き合ってはいられそうもないが、もう一件、中島のウソ・デタラメの典型例を示しておきたい。

 

中島は「(北京の街では)どこの店でも受け取りをだす。すべての商品は正札かけ値なしである。わたくしが行く前に、全部の店がやっと“公私合営”に切りかえられた。やっとという意味は、切りかえの申し込みが多く、一時は整理がつかなかった」と記すが、呉々も誤解しないでもらいたい。真っ正直な商売に励むようになったから「受け取りをだす」のではなく、共産党政権は商工業者の収入の入り口を完全に掌握・管理すべく領収書を義務付けたのだ。自らが営々と築いてきた財産をタダ同然で共産党政権に巻き上げられてしまう「公私合営」への「切りかえの申し込み」に、業者が殺到するわけがない。やはり実態は、「白天敲鑼打鼓、晩上痛哭流涕」(『中国生活記録  ――建国60年民生往事』陳煌編著 中国軽工業出版社・北京市档案局 2009年)だったに違いない。つまり昼は当局の厳しい監視があるから、銅鑼や太鼓で「公私合営」を大歓迎するフリをみせなければならない。そうでもしないと、反社会主義・反革命分子のレッテルを貼られ、社会から抹殺されてしまう。だから、監視の目が弛んだ夜、家でサメザメと泣き明かすしかなかった。

 

ウソ・デタラメはまだまだ続き、中島の犯罪的行為は止まるところを知らない。《QED》