【知道中国 378回】 一〇・四・仲三
――なんといったって『実践論』ですよ
『認真学習馬克思主義認識論 学習《実践論》例選』(人民出版社 1972年)
この本の編著者は共産党理論中枢の中央党校工農兵学哲学調査組、ということは当時の共産党における理論面での最強の布陣――ならば、この本は当時の中国におけるマルクス主義と毛沢東思想研究の最高権威が示した最高の成果であり、同時に共産主義哲学の最高峰ということか。“最高”のテンコ盛りだ。
なにやら抽象的で難解の極みともいえそうだが、なにはともあれ目次を眺めてみると、「一、実践の観点は弁証法唯物論の認識論における第一の、そして基本的な観点である」「二、物質は精神を変質させ、精神は物質を変質させる」「三、実践、認識、再実践、再認識」「四、客観世界の改造は、自己の主観世界の改造でもある」。
やはり難しそうだ。だが、この程度で怯んでいてはイケナイ。盲、蛇に怖じずデアル。やはり実践しかない。そうだ、実践だ。実践ナノダ。勇を鼓して読み進んでみると、この本の主張は、次のようになるらしい。
ヒトには頭脳という「思想加工工場」が備わっている。その工場をフル稼働させ弁証法唯物論的認識論に基づいて自覚的に実践をなすならば、「真知」を引き出すことができる。「調査なければ発言権なし」の毛沢東の教えに従い、地に足の着いた調査からえられた結果を正しく分析してこそ、ものごとの本質をはっきりと認識することができる。このような過程を自覚的に繰り返すなら、経験主義の悪弊を打破し、刻苦勉励して唯物弁証法を身に着け、唯心論と形而上学を打ち破り、毛沢東思想を真面目に学習し世界観を改造することで、遂には毛主席の革命路線と闘争をしっかりと守り抜くことができる。
――これでは莫明其妙(チンプンカンプン)。そこで、この本に収められた黒龍江省甘南県太平大隊の尹永徳が綴る「養豚実践で弁証唯物論の使い方を会得する」との報告から、日常的・具体的に「マルクス主義の認識論を真面目に学習する」方法を見ておこう。
69年8月、人民公社は彼をブタの飼育員に推薦すると共にブタの集団飼育を決定した。養豚などは未経験であり失敗したら公社に損害を与えると婉曲に辞退を申し出ると、「養豚の経験は養豚の実践のなかから創り出されるものだ。養豚実践は学習の好機となる。養豚せずして、どこで学ぼうというのか」と貧農下層中農出身の指導員に説得される。そこで「毛主席の哲学思想は私を武装し教育してくれる。私の養豚の決意は固まった」そうだ。
最初、養豚なんて水を飲ませ、エサを食わせておけばいいものと高を括っていた。ところが「思いも寄らぬことに、矛盾が次々に起こる」。170頭余りの豚を同じように育てている心算だが、肥ったのもいれば痩せたのもいる。仔細に観察すると、気が小さく消極的な豚は餌にありつけないから肥れない。そこで痩せた豚には別枠で餌を与えると、肥りはじめた。「旧い矛盾が解決すると、新しい矛盾が起こる」もの。毛が黄色く変色した豚は痒みを取ろうと壁や柵に体を擦り付ける。これは小便の湿気が皮膚に悪影響を与えるからだ。豚小屋を頻繁に掃除し小便する場所を定め習慣づけようとするが、寒い冬など豚は彼のいうことを聞かない。困ったことだが手を拱いてはいられない。「こんなことで社会主義と社会主義建設に貢献できるのか」と自らを叱咤激励し、「実践、認識、再実践、再認識」だ。
だが、そんなに小難しく考えることもなかろうに。豚を気持ちよく肥やすためには豚の気持ちになればいい。だから、飼育員が豚になるしかない。実践論は・・・辛いゼヨ。 《QED》