【知道中国 1047回】 一四・三・十
――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島22)
「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
中島は、何やら長閑な北京散策を楽しんでいるようだが、時を同じくして北京では反右派闘争の総仕上げが進行していた。
11月10日というから日本文芸家協会の代表らが中国作家協会と「我々両国の文学者は、両国文化の将来のために、〔・・・〕あらゆる努力を惜しまないことを期するものである」と謳った「共同声明」に調印した日である。同じ北京で、台湾民主自治同盟が主席である謝雪紅女史の「反党反社会主義的罪行」を告発する大会を始めた。
台湾民主自治同盟は国民党の台湾支配に反対する政党で、共産党の周辺に在って建国に協力した民主諸党派の1つ。国民党による本省人大弾圧(47年2月の「二・二八事件」)から逃れた謝雪紅らが逃亡先の香港で同年11月に結成し、その後に北京入りしている。日本敗戦前後から大量の共産党員が秘密裏に台湾に潜入し、台湾共産化のための秘密工作に従事していた。台湾民主自治同盟も、その一環といえるだろう。因みに、謝雪紅は文革でも徹底して批判されたが、最近では中国・香港・台湾で再評価の動きがみられる。
謝雪紅告発大会の終結は公式には12月8日。ということは、昨日まで共に反国民党を掲げ戦ってきた“同志”から、「極端に狂妄な野心家」であり、「大鳴大放(=「百花斉放 百家争鳴」運動)の期間、あらゆる方法で騒動の火を点け、右派分子を煽動して共産党幹部の政策を攻撃し」、「反右派闘争を積極的に阻止し破壊しようとした」と、30日余りも長期にわたって責め立てられていたことになる。
その残酷さ、執念深さに恐れ入るが、告発する側だって必至だ。少しでも謝雪紅に情けを掛ける素振りを見せ、攻撃に手心を加えでもしたら、今度は逆に自分が「反党反社会主義」の“濡れ衣”を着せられるわけだから、あることないことを並べ立て、有無をいわせぬ過酷な攻撃を繰り返したに違ない。まさに「你死我活(生きるか死ぬか)」の闘いだった。
11月11日、同じく民主諸党派の1つである中国民主同盟の機関紙『光明日報』社務委員会が他の民主諸党派幹部を招集し、同紙社長の章伯釣と編集長の儲安平が共産党を批判したことを理由に「右派分子」として解任している。
17日には『人民日報』は「機構を緊縮し、幹部を下放せよ」と題する社説を掲げ、政府関係機関幹部の執務態度を改めさせるべく、30万人強を生産現場に、81万人余を農村に送り込んだことを明らかにした。これも反右派闘争の一環だろう。共産党政権に不平・不満を抱く政府関係者の“腑抜けた根性”を、労働を通じ徹底して鍛え直そう、といのだろう。
まさに北京では、その後の毛沢東=共産党独裁を決定的に固定化する動きが進行していた。だが中島は、「わたくしは、中国にいる間、一度も中国内の“整風運動”については質問しなかった。整風運動も一段落ついた所だ、と説明してくれる人もいたが、実際は、それどころではなく、いたるところで討議や批判がつづけられている最中だったらしい。批判はたしかにきびしいものであろう」と記す一方で、対日工作実務筆頭の廖承志の名を挙げて、「わたくしが直接にあった政治家は廖承志さん一人であるが、廖さんの次の一言は、きわめて強い印象をわたくしの心に残した」とし、「なにごとも人民が中心です。中国の政府が一ばん恐れているのは、人民の声です。人民の非難攻撃を受けたら、政府はひとたまりもなくつぶれますからね・・・・・」と綴っている。まるで整風運動=反右派闘争で「人民の非難攻撃を受け」た者が悪くて、批判されて当然だとでもいいたげだ。
13日、故宮博物院を見学する。「わたくしたちと前後して、郷土から出て来たばかりらしい一団の少数民族の人々が、固有の服装で見学にまわっていた」。その姿に「少数民族が、平等の扱いをうけていることはいうまでもない」、と。へ~、そうでしたかねェ。《QED》