【知道中国 1048回】                       一四・三・仲二

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島23)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

故宮博物院を見学する少数身族の立ち居振る舞いを目にして、中島が「少数民族が、平等の扱いをうけていることはいうまでもない」と感じた6日後の11月19日から27日まで、中共西蔵工作委員会が拡大会議を開いたのである。

 

会議は、「西蔵(チベット)各地域における党組織内で整風運動を展開することは十分に必要である。運動において、官僚主義、主観主義、セクト主義を全力で克服する以外に、大民族主義と地方民族主義の教育に反対しなければならない」という考えで一致したのだ。

 

ここに示された「大民族主義」が具体的には何を指し、「大」と「地方」の民族主義にどのような違いがあるのかは不明だが、中共西蔵工作委員会拡大会議と銘打っているところから判断して、民族主義は共産党政権が掲げる漢族中心の民族主義ではなく、チベット族にとっての民族主義と考えて間違いないだろう。

 

じつは反右派闘争を機に、共産党政権は民族政策を大きく転換する。建国当初から50年代を通じては少数民族の囲い込みに政策の重点が置かれていた。そこで①自治区や自治州を設定して広範な自治を与え、②少数民族の認定作業を行い、③少数民族の幹部を養成し、少数民族の言語教育を行い、④漢族ほどに過激に社会主義化を進めない――を柱にしていた。だが、反右派闘争を機に真反対の方向に舵を切った。少数民族が独自の民族的立場を求める動きを「地方民族主義」と批判する一方で、漢族による少数民族支配の正当化を目指す「民族融合論」を打ち出す。多くの少数民族出身の幹部は失脚し、仏教やらイスラム教徒に与えられていた特権は廃止され、政治と経済の両面からの国家的統合を掲げ、少数民族地区には大量の漢族が送り込まれる。

 

共産党は建国翌年の50年1月1日の機関紙『人民日報』の社説で、年度内の目標として「チベット、海南島、台湾の解放」と掲げていたように記憶している。その時から60有余年、いまだ「台湾の解放」は達成されてはいないが、チベット、海南島の「解放」は実現している。海南島はともかくも、チベットの「解放」とは先ずは人民解放軍を送り抵抗闘争を力で抑え込み、次いで「民族融合論」に基づき大量の漢族を移住させ徹底した「漢化」を図ることだが、50年の「解放」を指揮したのは鄧小平、89年の「動乱」針圧を指揮したのは胡錦濤――共に“民主派”と評される指導者だった。ということは少数民族制圧に関するなら民主派もヘチマもない。コチコチの漢族至上主義者だった。

 

因みに54年に全国人民代表大会副委員長に就いたダライ・ラマだったが、共産党政権のチベット政策に猛反発し、59年3月にインドに脱出。ダラムサラに亡命政権を樹立して現在に至っている。

 

チベットを例に建国以来の少数民族政策を簡単に振り返ってみても、口が裂けても「少数民族が、平等の扱いをうけていることはいうまでもない」などと公言できないはずだが、中島は「現在、少数民族の特徴を生かすこともおこなわれ、民族舞踊や民族歌謡が珍重されているが、人間としては急速に水準化され、平均化されていくであろう。各民族の要求に応じて、(少数)民族学院の中には、各宗教の祭壇も作られている。故宮博物館で見た(少数民族の)奇習も、彼らが欲するならばそのままにしておくという態度に関係があったと思う」と、空っ惚けて記す。

 

少数民族政策大転換直前の北京での体験を素直に綴ったともいえるが、少数民族が「人間としては急速に水準化され、平均化されていくであろう」という反応からは、少数民族の心情を慮る心など微塵も感じられない。漢族が上に立ち下に配された少数民族を統べる構造を持つ漢族至上の「中華民族主義」にも、やはり中島は毒されていたのだ。《QED》