【知道中国 1049回】                       一四・三・仲四

 

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島24)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

北京を代表する名勝の1つである北海公園で、中島は遊びに興じている若い学生の笑い声を耳にしながら、「なぜ日本人の多くは“中国”といわずに“支那”というのだろうか、と」考えた。

 

「日本人が“支那”という時、別に悪意はないという。英語でChinaと呼ぶことには不快を感じないのに、それと同じ語源の“支那”がなぜいかんのか、という。ほんとうにそうであろうか。なかにはむしろした親しみの情をこめて“支那”と呼んでいる日本人もいるであろう。しかし、やはりこの呼び方の中には、救いがたい日本人の根性が隠れているのではないか。相手が希望することを、そのまま受けいれてそれに従うのが嫌いで、相手が嫌うことをわざとやってみせて、それで自分の主観的な優越感を満足させているに近いといったらいいすぎであろうか」と記した後、「礼儀の問題を離れて、冷静な利害だけから考えても、明らかに相手が嫌っているような呼び名をやめないのは、全くの愚行なのである。損はあっても、“とく”はないのである」と続ける。

 

そういえば、数年前、天津で出会った中国の青年が「他国はともかく、日本人だけからはシナと呼ばれたくない」と半ば興奮気味に抗議口調で話していたことを思い出した。

ところで中島の主張を言い換えるなら、「支那」という「呼び方の中には、救いがたい日本人の根性が隠れてい」る。そんなことは「自分の主観的な優越感を満足させている」だけであり、「冷静な利害だけから考えても、明らかに相手が嫌っているような呼び名をやめないのは、全くの愚行なのである。損はあっても、“とく”はないのである」――敢えて相手が嫌っているようなことを行うことは愚かであり、ソロバン勘定からいっても損だから止めよう、ということになるだろう。

 

だが考えてみれば、戦後の両国関係に対する日本側の対応は一貫して「明らかに相手が嫌っているような」ことを避ける一方で、ソロバン勘定を第一に「“とく”」になることを中心に動いて来たのではなかったか。もちろん、日本の首相としては戦後初めて台湾を訪問し、帰国後の1957年11月、参議院外務委員会で、共産党政権が最も嫌った「二つの中国」を前提に、「台湾海峡の争いは二つの政権があるためで、日本は国民党と共産党の争いを調整したい」と発言した岸首相などは極めて稀有な例であり、おしなべて「明らかに相手が嫌っているような」ことを避けて来たといえる。

 

さらに中島は、「日中文化交流は、一つの特別な目的をもっていた。日本がわでもよく承知していたことであるが、まず第一に、これは隣りあわせの日本と中国との人々の学びあいによって、相互理解を深める、という目的のためにおこなわれていた」。「その目的のさらに奥のところには、どんな形にしても、近い将来における真の友好関係への道を開き、平等な条件による平和共存を確実にする、という目的が存在した。それは、法律解釈や、損得の問題に先立つ条件であった」と、続ける。

 

加えて「理くつぬきで、そういう目的をよく理解するか否か、そして、それを希望するか否かが、第一の分かれ道である」。「この基本目的がはっきりしているかぎり、たいていの問題を克服することができた。逆に、少しでもこの目的が忘れられると、たちまち困難が大きくなった」。行間から、日本側は「この目的を忘れ」るが、中国側は原則に従って忠実に履行している。だから「日本として、中国に学ぶべきことはいくらでもある」。かくして、「自分にとっていやなことは相手にとってもいやなことであることを知るのが第一の道である」との結論が導かれている。

 

だが、そもそも「真の友好関係」「平等な条件による平和共存」は可能なのか。《QED》