【知道中国 1050回】                       一四・三・仲六

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島25)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

中島の主張する「真の友好関係」「平等な条件による平和共存」が具体的に何を指すのかは不明だが、そもそも外交の第一義的目的は自国の矜持を持った生存と安全の確保にあり、自国民の生命と財産の保全にあり、近隣諸国との「真の友好関係」「平等な条件による平和共存」にあるわけではないだろう。現実的に考えるなら、後者は前者を確固としたものにするための前提条件にすぎない。だから後者を重んずるあまり前者が侵されるような事態が予兆されたら、サッサと捨て去るべきは明かに後者であるはずだ。

 

とどのつまり中島らが日中友好運動を差配した50年代半ば以降、日本は基本的に不満を感じながらも相手との間で波風の立つことを嫌い、近隣諸国との友好というオ題目に自らの手足を縛ってしまい、“外交的配慮”やら“大人の対応”などの自己満足(欺瞞?)に基づいて、「明らかに相手が嫌っているような」ことを避ける愚を繰り返してきてしまった。目の前の厄介事を先送りし、敢えて摩擦を避けようという曖昧で消極的対応が、結果として現在の憤懣やるかたない惨状――中国からの尖閣攻撃や南シナ海の内海化の動き、加えて韓国による罵詈雑言・史実捏造外交――に繋がったことは、いうまでもないだろう。

 

つまり現に目の前で繰り返される彼らの傍若無人・跳梁跋扈は、たんに中国が経済大国化したからではなく、その根っこは、日本の「55年体制」に病巣があったと思えてしかたがない。古今東西の国際関係史に照らしても、近隣諸国との間で「平等な条件による平和共存」が成り立った例はないはずだ。古来、遠交近攻という訓えがあるではないか。

 

ところで中島は、時に自らが任じている文学者としての立場からも発言しているが、やはりトンチンカンの誹りは免れそうにない。以下に、その一例を。

 

中国の文学者の方が、日本より不自由だというわけではない。「現にこの目で見て来た中国では、人間の弱点を認めるにしても、それをよりどころにして文学を創作するという現実的な根拠がない。それに反して、日本では、どんなに人間の弱点をおおいかくそうとも、やりきれないほど社会にそれが充満しているので、文学はそれをよけることができない」。中国における文学は「できるだけ人間の弱点を少なくすること望む」ことを目指している。だが日本では、「人間の弱点が少なくなれば人生がおもしろくなくなり、文学はあがったりだ」との考えが支配的であるとし、日中の間では「全く相容れない文学観を持っているとみずからみとめなければならなくなる」――これが、中島の考える日中文学の違いだろう。

 

つまり中島は、「できるだけ人間の弱点を少なくすること望む」がゆえに中国文学は、人間の雄々しさ、逞しさ、自己犠牲を描く。これとは対照的に、日本の文学は社会に「充満」している「人間の弱点」に飽くまでも拘る――と思い込んでいるようだ。だが、この中島の文学観を敷衍するなら、「為人民服務」「自力更生」の政治スローガンに象徴される文学も芸術も、なべて政治(=革命)に奉仕すべしという毛沢東の文芸観に通ずる。日本では確かに文学者のカンバンを掲げて商売をしていた中島だが、文学は「人間の弱点」を描くものではないとは、なんとも勇ましい妄言であることか。中島というゴ仁は、文学者を僭称するトンデモないペテン師であったことは間違いなさそうだ。

 

ところで、お笑いを。広州でのソ連バレー団公演の折、「報道カメラマンがずらりと並んで〔・・・〕遠慮なくストロボをたいてシャッターを切っている」。だが「五千人という観衆の中からは一つもシャッターの音は聞こえなかったのである」と。ここで当時の中国の民衆が置かれていた環境――毛沢東による徹底した独裁化に伴う情報管理、加えて経済事情から考えれば、「五千人という観衆」がバレー鑑賞のマナーを守っていたのではなく、カメラを持てなかっただけだろうに。さすが中島だ。「人間の弱点」を描こうとはしない。《QED》