【知道中国 340回】 十・一・念一
――まあ魯迅も、いツラの皮でしたネエ
『魯迅批判孔孟之道的言論摘録』(中央党校編写組編 人民出版社 1974年)
中国の近現代文学に大きな足跡を残した魯迅は、毛沢東によって「中国文化革命の主将であり、彼は偉大な文学者であっただけではなく、偉大な思想家であり偉大な革命家であった」(1940年発表の『新民主主義論』)と最大限に評価された。
かくて、文化大革命期には“神格化”されてしまったほど。さすがにヨイショのしすぎと反省したのか、80年代以降は反封建イデオロギーの枠を外し、一人の文学者として見直すべしとの動きがみられる。
この本が出版されたのは、文革後半に起こった批林批孔運動時。編集した中央党学校の正式名称は中国共産党中央党学校で、高級・中級幹部を教育し、理論家を養成するための最高レベルの政治研修機関――とくれば、当時の政治情況において、この本の狙いも、また魯迅が担わされた政治的役割も判然としてくるだろう。
魯迅は仁義孝悌に象徴される旧い封建礼教・徳目を批判し、儒教倫理に基づく社会秩序を容赦なく罵倒し、それらを墨守しているからこそ中国は退歩し帝国主義列強から犯され衰亡への道を歩んでいるのだと、執拗なまでに主張していた。その象徴が1918年に発表された口語小説の「狂人日記」だ。
その立ち居振る舞いがもとで世間から「狂人」と看做され除け者にされた人物に仮託して魯迅は、「私は歴史の頁を繰ってみたが、この史書には年代がなく、歪んだ各頁の全てに『仁義道徳』の何文字かが書かれていた。横になっても眠れず、夜半までじっくり見入ると、文字と文字の間からやっと字が見えてきた。本全体にびっしりと書かれた2文字は、『吃人(人喰い)』だ」と綴る。古来、儒教倫理に基づく封建道徳こそが中国の社会を縛り人を殺し続けてきた、というわけだ。ここに示された「吃人」の2文字からは抽象的な意味だけではなく、中国古来常態化していた実際の「人喰い」という行為が透けて見える。
この本は、魯迅が残した数多くの小説や批評などから「大成至聖人文宣王」と尊称されてきた孔子と、孔子に次ぐ聖人だと尊ばれることから「亜聖」と呼ばれる孟子を批判する文章を拾い集めたものだが、「孔子は『権勢を誇る者たちにとっての聖人』でしかない」「孔子や孟子の説く『王道』や『仁政』などというものは、とどのつまり人を騙すものなのだ」「孔子が熱く語ったといわれる『仁義道徳』は人を嬲り殺しにする刀にすぎない」「孔孟が説く『中庸の道』は奴隷根性そのもの。卑屈の極みだ」「反動派は人に取り入り出世するために、孔孟の道を持ち出すものだ」といった内容の文章が紹介されている。
このように、中華文化の至宝である「至聖」や「亜聖」を完膚なきまでに叩きのめしているわけだから、毛沢東が魯迅を「中国文化革命の主将」と讃えたとしても、強ち不思議ではない。だが、奇しくも盧溝橋事件から20年が過ぎた1957年7月7日、上海で文芸界の幹部クラスとの会合の際、「魯迅先生がご存命なら、今頃は」との質問に対し毛沢東は、「魯迅かい。そうさなあ、牢屋の中でものを書いているか、気をきかして黙り込んでいるか。2つに1つだろうな」と、さり気なく、しかも傲然と応えたという。
この逸話が事実なら、毛沢東にとっては実際に発言する魯迅は極めて不都合な存在ということになる。ならば魯迅が1949年の建国後の《毛沢東の中国》を生きたとしたら、言論活動を封殺されるか「牢屋の中」だったはず。幸いにも、魯迅の死は1936年だった。 《QED》