【知道中国 335回】 十・一・仲二
中国史は「搾取有理」「造反有罪」VS「造反有理」「革命無罪」の繰り返し
『我国歴史上労働人民的反孔闘争』(南開大学哲学系編写 人民出版社 1974年)
「歴史の上では、我が国の労働人民は一貫して孔子反対闘争の最前線に立ってきた。
我が身を切り刻まれても、敢えて『聖人』を引き摺り下ろす光栄な戦いの伝統を持つ」という“歴史観”を基調として、この本は中国史を見直している。そこで、数多くの「農民起義と農民戦争」を分析し、孔学(儒学)に対し「最も深刻で決定的な打撃を与えた労働人民の反孔子闘争」に、「歴史的に与えられてしかるべき当然の地位」を与えようとする。
春秋末年に新しい生産方式が生まれるや、奴隷制は崩壊の危機に直面する。消え逝く階級となりつつあった支配階級だが、奴隷や労働者に対し残酷極まりない圧迫と搾取を狂ったように繰り返す。そこで虐げられた者たちが決起した。たとえば紀元前520年、周では大部分の手工業奴隷が周王朝打倒の戦いに馳せ参じた。衛では王は殺され(前478年)、その後継者は追放されている(前470年)。支配階級や貴族は決起した奴隷を「盗賊」と罵るが、何処の国でも盗賊が充ち溢れる「多盗」という現実に直面し、恐怖し、浮足立つ。
現在の山東省一帯で9000人の部下を統率して奴隷起義の巨大なうねりを巻き起こした柳下跖を支配階級は「大盗」「盗跖」と呼び、「人の肉を喰らい血を呑み乾し、焼き尽くし殺し尽し姦淫の限りを尽くす」とウソ八百を並べて罵る。だが、柳下跖の勢いは止まらない。危機感を感じた支配階級の前にしゃしゃりでた孔子は、自らの「三寸不爛之舌(減らず口)」を武器に彼らの「代言人」を買って出て柳下跖の説得に向かう。戦いを止め兵を収め武装闘争を放棄させ、風前の灯状態の支配階級の反動政権を立て直そうという魂胆だった。
だが、その目論見は見事に外れた。孔子を前に、柳下跖の怒りは頂点に達する。大喝一閃。「この巧偽人(うそつきヤロー)」。孔子はオズオズと引き下がるしかなかった。往古から人は「耕して食し、織って衣し、相に害するの心を有つことなく」生きてきた。これこそ、搾取も圧迫もない最高の道徳が行われた至福の時代というものだ。階級社会に突入して以来、「強きを以て弱きを凌み、衆を以て寡を暴く」など数々の不合理な現象が社会に出現してしまった。孔子が崇めたてまつる古の王公などは「至高の徳を備えた“聖人”ではなく、人民を不安にさせるものでしかない。社会のありとあらゆる悪を作り出す極悪非道の罪人だ」――というのが、柳下跖の考えだそうだ。
少数の封建搾取階級と圧倒的多数の働く者たちとの間の絶え間のない闘争。孔子=儒教は巧妙狡猾に知恵を授け、卑怯卑劣な搾取階級をゾンビのように復活させ、働く者を責め苛み続ける。これが、この本が主張する中国史の姿であり、文革後半の中国における“欽定歴史認識”ということになる。そこで「孔子学徒の林彪を徹底批判し、現代の孔子である周恩来を打倒せよ」という四人組の大宣伝が生まれてきたわけだ。
なぜ、林彪や周恩来を批判するのに孔子を持ち出すのか。牽強付会の極みだと思うが、じつは彼ら漢族は骨の髄まで孔子に囚われている。漢族にとっての業病というものだ。
ところで、この本の主張に従うなら、現在の極端な格差社会で「虐げられた者たちが決起する」ことは当然ということになる。ならば共産党は農民の決起を圧殺するのではなく援助し、彼らの戦いの先頭に立つべきだろう・・・に。現代の中国で「三寸不爛之舌」を叩く「代言人」「巧偽人」とは、さて誰のこと?「和諧社会」が聞いて呆れマス。 《QED》