【知道中国 331回】 十・一・初三
――文革に別れを告げ、四人組を葬り去りはしたが・・・
『含笑向七十年代告別』(邵燕祥 江蘇人民出版社 1981年)
著者は詩人で1933年の北京生まれ。ならば1970年は、40歳目前ということになる。この詩集に収められた40編ほどは全て77年から80年――鄧小平が権力を握り、文革路線=毛沢東政治を否定し、現在に続く改革・開放路線に踏み切った混乱・混沌の時代に書かれている。それだけに、文革=毛沢東による政治的閉塞状態を脱した安堵感と明日への大いなる不安と希望とが顔を覗かせる。試みに、その何篇かを抄訳してみた。
77年4月の日付のある「我的朋友」は、「かつて僕らは手を携えて革命に向かって突っ走った、現場到着を党に報告し、祖国に伝えた。人民の疾苦、これ以上の痛苦があろうか、革命の勝利、これ以上の歓喜があろうか。/青春、輝かしき時の召喚、僕らは選ばれ、そのために青春を捧げた。思いは責任、想いは勲功、胸を焦がしたのは崇高な理想のための献身。/君はあの入団の式典を忘れはしまい、君はあの入党の宣言を忘れるわけがない。誰が胸を張って人民の子供といえるだろうか? 誰憚ることなく階級の戦士といえるだろうか?/あの時から何回も天安門に別れを告げ、あの時から何度も夜汽車で朝焼けの空に向かったことか;祖国の大地は幾たびも暴風雨に襲われ、革命の命運は一人一人の人生を苛んだ。/いま、僕ら二人は四十歳に足を踏み入れようとしている、朋友よ、我が同年よ! もし、もしかりに青春に戻れたら・・・いや、僕はいま青春の召喚を聞き届けた。/熱き血潮はなぜ沸騰するのか? 激情はなぜ燃えんとするのか? もう一度手を携えて全速で奔る、再び召喚を聞き届けた時、現場到着の報告を党に向かって、祖国に向かって!」
次いで78年2月の「敲門声」。「・・・あの日、忘れもしない一九七六年十月六日。/誰かが玄関の扉を叩く、そっと、そっと・・・/誰?誰の手?/扉を叩く単調な響きが深い情を物語る?/扉を開けると、一陣の風が/ようこそ/日曜日午前十時の輝かしい太陽を迎えた/二千年以上に及ぶ封建専制の冷酷な法律に思いを致せ、一時ながら勝手気ままに振る舞った第三帝国の党衛軍を忘れるな、中国人民と「四人組」との間の惨烈なる決死の闘いに思いを馳せろ、闘いのさなかに斃れた有名・無名の英魂を忘れるな、幸運にも生き延びた者と後からやって来る者の重い重い、重過ぎる責任」
「敲門声」から1ヵ月後の78年3月の「春歌」は、「・・・誰もがまだ早い、まだまだ早い、と。だが僕はもう見つけたんだ。密林の中で春の息吹を、僕はもう手にしたんだ。春、生命が飛び跳ねているじゃないか!」
80年1月8日の日付がある「記憶」は「代序」と記され巻頭に置かれる。「記憶が口を開く、俺は塩だ、と。俺を怨むな、お前の傷口に叩きつければ、お前は激しく痛み悶え苦しむ。/俺と痛苦とを一緒に呑み込め・・・俺はお前の血となろう、俺はお前の汗とならん、俺はお前に、ありとあらゆる痛苦より、より勁い力を与えるだろう」
77年から80年までの詩篇を読んでみると、あの時代の中国人の精神のありようが朧気ながら伝わってくる。あの時、彼らは見えない敵に向かってドンキホーテのように突き進み、敵をデッチあげて嬲り殺し、血祭りに挙げて喜んでいた愚かな自分に、一瞬ながら気が付いたはず。だが、それも束の間、カネ儲けの狂騰に国を挙げて猪突猛進。いくら塩を傷口に刷り込んでも、平気の平左。痛くも痒くも無さそうだ。処置なし・・・負けマス。 《QED》