【知道中国 1051回】                       一四・三・仲八

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島26)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

1956(昭和31)年3月23日、「東京丸の内の工業クラブで、日本中国文化交流協会の創立総会が開かれ」、その席で理事長に就任して以来、一貫して中島は日本側窓口の総元締めとして“日中友好運動”を差配してきた。

 

中島は、中国人は「相手の短所には目もくれず、長所だけを学ぼうとする。残念ながら日本人はしばしばその逆」であり、「日本人に対する感情的なシコリを消すために、(中国)政府は本気で努力して来た、という。それを忘れて、日本人の方でおかしなシコリを残しているのは、信義に関し、品格に関することを改めて痛感した」と“激白”する。やはり中島の“基準”に基づけば、中国人に較べて日本人は信義に悖り、品格に劣るがゆえに、「日本として、中国に学ぶべきことはいくらでもある」との“説教口調”が口を衝くのだろう。

 

かくして、「日本人の方でおかしなシコリを残している」かぎり、「両国民の相互理解の上に立つ平等な条件による共存共栄の道などは、いつ開けるかわからない」。最近になって日本側から「国交の正常化は断じてやらないが、貿易だけは大いにやりたい」といった風な身勝手な動きが出てきたが、「そうなったら、もはや友好的な共存共栄という目的はどこかにけし飛んで、欲得ずくの取引だけになってしまう。そうなれば、国交正常化以前の交渉という現実的不自然さが、マイナスの形で目の前に立ちはだかるのはわかりきったことである」と。苦言なのか。嘆きなのか。はたまたボヤキなのか。

 

じつは国交のない日中間の貿易は、昭和27(1952)年に締結された日中民間貿易協定(第1次。以後、第2次=53年、第3次=55年)によって進められていた。貿易やら文化交流といった非政治的交流を積み上げることで最終目標の国交樹立に繋げようという意味合いから、当時、これを「積み上げ方式」と呼んでいた。その柱として位置づけられた貿易協定には、通商代表部の相互設置と代表部員への外交特権付与の一項が記されていたのだ。

 

57年末に第4次協定への改定期を迎えるや、中国側は通商代表部設置問題を交渉の前面に押し出す。国旗を掲げた通商代表部に外交特権を付与された代表部員――事実上の大使館待遇を求めるという強硬姿勢に転じ、従来の単なる民間貿易から政府間関係構築へと、交渉のレベルを一気に引き上げた。衣の下の鎧を見せたのか。エビ(貿易)でタイ(?介石政権切り捨てによる国交樹立)を釣ろうとしたのか。これに対し岸首相は、前石橋政権で就任した通産大臣当時の「代表部設置は認められぬ」との姿勢を崩すことはなかった。

 

このように当時を振り返ってみると、中島は攻勢に転じた中国側の姿勢を是とする一方、反共産党・親国民党の路線を歩む岸政権の対中姿勢を厳しく非難し、「友好的な共存共栄」を目指す運動が頓挫した要因を、専ら岸政権の対応と「貿易だけは大いにやりたい」いう日本側が求める「欲得ずくの取引」に求めた。

 

かくして岸政権や財界の「このような態度は、日本国民大多数の気もちを代表するものではないし、友好確立の希望を前提としない強がりが、国民全体の利益に反することを、われわれも冷静厳格に悟るべき時であると思う」と“憤激”してみせた後、「中国は、激しく変わりつつある。日本の民主化が遅々として進まないのに反して、中国の驚くべき躍進ぶりを聞くと、われわれも改めて政治の問題を深く考えさせられるのである」と結んだ。

 

中島が訪中した翌年、中国は国を挙げて大躍進政策に突き進む。確かに「中国は、激しく変わりつつ」あった。だが、それは「驚くべき躍進」ではなく、驚くべき狂気だった。一貫して中国政府の従僕を演じた中島の耳に、大躍進という飢餓地獄に苦しむ人民中国人の怨嗟の叫びが届くことはなかっただろう。中島は犯罪的茶坊主だった・・・やはり。《QED》