【知道中国 329回】                               十・一・初一

――もはや、語るべきことばもなし・・・
『「天堂」挽歌』(趙豊 華出版社 1993年)



 1955年11月、共産党第七期六中全会に臨んだ毛沢東は国家建設の将来像を描き、「50年から70年ほど、つまり5カ年計画を10回から15回ほど続ければアメリカに追いつく、いやヒョットすると追い越すことだってできそうだ。半世紀先には共産主義中国が出現しているに違いない」と語った。なんともはや過激で急進的、いやアバウトが過ぎる。だが、そうであるがゆえに、人民は猪突猛進競争に我が身を焦がす。というのも、過激であればあるほどに人々の注目を集め、権力を弄ぶことができるからだ。大躍進を起点に文革を経て現在の超カネ儲け路線まで、この悪弊は改まることがない。ということは、おそらく彼らの体内には《自省》やら《自制》という仕組みが備わっていないからだろう。

 本書のいう「天堂」とは、大躍進とともに全国的に組織された人民公社を指す。大躍進の推進力であった人民公社が、結果として国家に大後退を、民衆に大悲惨をもたらしたわけだが、本書に示された大躍進開始前後の統計数字を比較するだけでも、毛沢東が進めた大躍進のブザマな姿が浮かび上がってくるに違いない。

 ●食用油:103万トン(57年)⇒60万トン(61年)=41.7%減

 ●豚肉:176.5万トン(57年)⇒24.7万トン(61年)=86%減

 ●鶏卵:25.9万トン(57年)⇒6.7万トン(61年)=74.1%減

 ●穀物:3723.5万トン(57年)⇒3295万トン(62年)=11.5%減(但し、62年分には備蓄の取り崩し分及び輸入分の500万トンが含まれる)

 次いで大悲惨だが、「1958年末には食糧は底を尽き、59年春には飢饉となった。共産主義が実現しないどころか、却って人々は栄養失調によって浮腫み、餓死するなど、先を争ってマルクスに会いにいくこととなった」。正常なら61年の人口は59年より2700万人増加していなければならないものを、「59年から61年の間における非正常の死亡者と出生者の減少数とで4000万人」。いうまでもないことだが「マルクスに会いにいく」とは死を、「非正常の死」は餓死を指す。

 かくして人民公社は土地も家畜も人間も痩せ(「三痩」)、農地も家畜も労働力も減少し(「三少」)、多いのは餓死者のみ(「一多」)という情況に追い込まれてしまう。多くの農民は「社会主義を望んでみたら、あっという間に餓えるばかり。こんなんじゃあ共産主義なんて真っ平ご免だ。共産主義にでもなったら、餓死か凍死しかない」と口にしていたとか。だが、毛沢東には逆らえない。大躍進を批判でもしようものなら「右傾」「反党集団」と断罪され、社会から抹殺される。この恐怖から脱するために、人々は闇雲に過激に奔るのみ。

 49年、天安門楼上に立った毛沢東の呼び掛けに応じ中国人は「立ち上がった」ものの、「長城の外の世界に目を向けることはなかった」。「何千年来、中国は摩訶不思議なボロ衣裳を身につけ、国を閉ざし、思考と歩みを縛り付けてきた」――と本書は述懐するが、現状からして、中国人が本当に「摩訶不思議なボロ衣裳」を脱いとは、とても思えない。

 さて55年から「半世紀先」といえば2005年。毛沢東の超楽観的考えでは、もう「共産主義中国」が出現しているはずだが、その気配すら見えない。共産党は毛沢東に逆らい「共産主義中国」の実現を放棄し、党の生き残りに賭けた。これを名存実亡という。  《QED》