【知道中国 327回】                        〇九・十二・念七

――野蛮で残虐で酷薄な「赤い漢人」への尽きない憤怒
『墓標なき草原(上下)』(楊海英 岩波書店 2009年)



 内モンゴルでの文革をGenocide on the Mongolian Steppeと捉える内モンゴル出身の著者は、中国共産党の“植民地”と化し漢族に蹂躙されるがままの内モンゴルの悲劇を、モンゴル人へのインタビューを交えつつ、歴史的に明らかにする。なにはともあれ、著者の見解とモンゴル人たちの心の叫びに耳を傾けてみよう。なお▲は著者の見解。●は証言。

 ▲アヘンは中国共産党の軍資金になる。国民政府の軍隊が前線で日本軍と死闘を繰り広げていた際、共産党はアヘン製造に集中していた。・・・延安で女性を抱いていた。

 ●モンゴル人はひどい国に編入されたものだと思いました。飢餓なんて、満洲国時代にはなかったですもの。

 ▲共産党は・・・延安にいたころから、国民政府の兵士たちが前線で日本軍と死闘を繰り広げていたころは、ソ連から伝わったヨーロッパ式のダンスパーティーに興じていた。

 ●私は生き地獄をみました。(漢人によって)目が失明させられた者、腕や足を切断された者、そして頭の中なかに釘を打ち込まれた人など、言葉では表現できない惨状でした。

 ▲(文革時も)モンゴル人を殺害する行為は革命行動として推奨されたのである。

 ●あの時(日本統治下)は本当に良かった。知的な青少年が集まって、近代教育を受けて立派な人材になって・・・今や日本統治時代を評価しないけど、事実は事実です。

 ▲(騙されて共産党に参加させられた解放軍に編入させられた内モンゴル兵士は)朝鮮戦争の際には最前線に立たされて人海戦術の消耗品となった。

 ▲(日本統治時代の興安女高の写真への解説。袴姿の凛々しい日本人女性教師・堂本修を囲むようにオカッパ頭・セーラー服・スカートの8人のモンゴル人少女。撮影は1939年)「先生はとにかくもモンゴル人に優しかった」、「私たちもなんと幸せな顔をしていたのだろう」、と日本統治時代を経験したモンゴル人たちは証言する。1949年10月1日以降、彼女たちはことばでは言い尽くせない苦難を嘗め尽くした。「幸せなモンゴル人」たちに笑顔がなくなった。

 ▲現代中国で「人民の良い総理」(人民的好総理)と謳歌されている周恩来だが、まったく無関係にモンゴル人指導者たちに、革命大衆の憎しみの矛先を巧妙に転換させようとしていることが分かる。

 ▲内モンゴル自治区でも「封建的な残滓」とされた民族衣装を漢族の人たちがまとい、「モンゴル人」と「朝鮮人」を演出した。この「伝統的な演出」は2008年に開かれた北京オリンピックの開幕式でも踏襲された。

 ●中国の漢人たちは確かに、ここ数年で豊かになってきました。しかし、我が内モンゴル自治区は(漢族に)略奪されつづけています。モンゴル人たちは極貧生活を強いられています。極貧生活を送るモンゴル人たちが少しでも自己主張をすれば、たちまち民族分裂主義者だと批判されてしまいます

 ●今のモンゴル族は中国の奴隷にすぎません。

 もはや多言は不要。それにしても、こんなにも過激な反中姿勢に満ちた“告発本”が、しかも岩波書店から出版されたのである。流石に岩波だ。やる時はやるもんだナッ。  《QED》