【知道中国 325回】                  〇九・十二・念四

――新たな台湾統一工作に注目せよ

11月20日、22の国と地区から3000人を超える華人企業家がマニラに集まり、世界華商大会が開かれた。この大会はシンガポールのリー・クワンユーの呼び掛けで発足し、香港(93年)、バンコク(95年)、バンクーバー(97年)、メルボルン(99年)、南京(01年)、クアラルンプール(03年)、ソウル(05年)、神戸・大阪(07年)と各地の中華総商会の主催によって隔年で開催されている。

 第1回大会が開かれた当時は欧米諸国から「成長のアジア」と賞賛され、ASEANの華人企業家は世界経済の牽引車と自他共に認めド派手なパフォーマンスを展開する一方、中国は天安門事件の後遺症に悩まされ、何とか動き出した改革・開放路線も頓挫しかねない情況だった。第1回大会の基調演説でリー・クワンユーは、「倹約、刻苦勉励、教育重視、仲間の信頼と相互扶助を軸とする中華文化の中核的価値観」を共有する華人企業家こそが「中国発展の強力な牽引車」であり、「中国における混乱回避の手助けができる」と語りかけた。

 だが、華人資本の中国投資が中国の経済発展を呼び、軍事力の増大を招き、結果として旧くて新しい《この地域における中国の存在感》という問題が浮上されることを恐れたASEAN諸国政府は、この大会に対し嫌悪感を隠すことはなかった。たとえばインドネシアでは、国軍のハルノト参謀長(政治・社会問題担当)が「彼ら(華人企業家)が持ち続けたいという民族の団結とはなんなのか」「大会の宣言や声明がどのようなものであったにせよ、華人以外からしてみれば不安を引き起こすものなのだ」と、インドネシアの華人企業家に“警告”を与えるほどだった。

 そこで機を見るに敏なリー・クワンユーは大会とは一定の距離を取り始める。97年に予定されていた第4回ジャカルタ大会はキャンセルされ、大会はアジアから遠く離れたバンクーバー、メルボルンで開かれている。ASEAN諸国政府からの非難を避けようとしたのだ。

 だが97年7月の香港返還直後にアジア危機が勃発したことから、大会をめぐる情況が一変する。ASEAN各国は深刻な経済危機に見舞われ、インドネシアではスハルト長期
政権が崩壊し、IMFの管理下に置かれるほどの被害をけた。アジア危機の波を被ることの少なかった中国は、唯一の“勝ち組”となった。以後、中国経済の快進撃は続き、各国は経済再建の道を華人企業家と中国とに求めることとなる。インドネシアでは第4代ワヒド大統領(99年から01年)ですら、「我が祖先は中国人」と“リップサービス”に努めたほど。

 かくて中国政府は大手を振って大会に乗り込むこととなった。第9回の神戸・大阪大会に次いで今回の第10回マニラ大会にも、No.4の全国政治協商会議主席の賈慶林を送り込む。かくて賈は参加者を前にして、「中国の経済・社会の発展は輝かしい成果を上げ、数千万海外同胞の示す卓越した貢献は明々白々であり、中国の政府と人民になり代わって感謝したい」と華人企業家を如才なくヨイショした後、「愛国愛郷の伝統を継承し、中国の近代化建設に積極的に参与せよ。両岸の交流を推進し、中国の平和統一という大業を促進するよう努力せよ」と、台湾統一工作について傲岸不遜な“上から目線”で訓戒を垂れる。

 さて第11回大会は2011年10月にシンガポールで開催されるとか。清朝を崩壊に導いた辛亥革命の勃発は1911年10月。シンガポールでは華人企業家に国共両党関係者も加わり、辛亥革命100周年を記念し、中華民族万歳の祝典が盛大に行われることだろう。  《QED》