知道中国 1052回】 一四・三・二十
――世界は「中国」を閉塞せよ・・・全力で
『中国再考 その領域・民族・文化』(葛兆光 岩波現代文庫 2014年)
著者は、「この書を通じて日本の読者に、一人の中国人研究者がいかに『中国』、『中国史』、『中国文化』を理解しているかを分っていただきたい」「いかに理性的に中国とその周辺の現実を分析しているかを理解していただきたい」と、「あとがき」に執筆の動機を記す。
本文僅か167頁の文庫本ながら読み応えは十分であり、深く考えさせられる。そこで、「『中国台頭』による興奮」が醸し出す高揚感に煽られ、「他の民族や国家が提供する良い制度、文化、思想を受け入れ」ず、「台頭状態での慢心の心理状態にあっては、かつての『四夷への蔑み』と『唯我独尊』の民族主義を踏襲し、現代化を通じて富国強兵を導き、天下の覇を争う野心」の実現を目指し妄動する共産党指導層、人民解放軍幹部、こういった勢力のお先棒を担ぐ内外知識人、加えて日本批判の妄言を繰り返すしか能のない内外メディア関係者などにこそ、「その立場や感情の上で、歴史を遡る知識と理性的な思考能力を持つ」中国人学者たる著者の主張を拳々服膺すべきことを、強く求めたい。老婆心ではありますが。
古来中国人は「『中国』は『四夷』〔周辺民族〕を見下して然るべきであり、中国文明は四辺の戎夷狄蛮に遥か影響を与え、教育すべき立場にある」という「天下観」を自明の理としてきた。だが、著者は史実を示し、この考えを明確に退ける。古代から周辺の国家や民族の存在を認め往来し、必ずしも自分たちだけが圧倒的に優れた文明を持っていたというわけではない。たとえばインド渡来の仏教は、確実に中国文化の根幹を形成している。「だが残念なことに、どういうわけかこれは古代中国人の根強い『天下観』を真の意味で変化させることはな」く、自省なきままに「中国の歴史は世界の歴史となったのである」。
じつは中国が抱き続けた「天下像は、中心だけが明確で、四辺はぼんやりとしている」。その「明確」な「中心」に王朝政権という絶対的な政府(政治権力)があったわけだが、「今に到るも一部の人は無自覚に政府を国家とし、歴史的に形成された国家を不変の真理として祖国への忠誠を求める。そのために多くの誤解、敵意、偏見が生まれるのである」
「『中国台頭』による興奮と高揚感」を背景に、「中国が長期にわたって受けた屈辱と圧迫に対する激しい反抗から」、①「我々は現在より遥かに多くの資源を管理し、経済的に管理、政治的に指導しこの世界を導かねばならない」、②「未来には中国人が政治的に全人類を統一して世界政府を樹立する」、③「現在の『中国』が近代ヨーロッパをモデルとする『民族国家』を超越し、現実的合法性と歴史的合理性があるものだ」といった論議が「時にイデオロギー的支持を得ている」――こう、著者は現在の中国のイビツな姿を描き出す。
この趨勢が続けば、いずれは「『天下』観念が激化され、『朝貢』イメージを本当だと思い込み、『天朝』の記憶が発掘され、おそらく中国文化と国家感情は逆に、全世界的文明と地域協力に対抗する民族主義(あるいは国家主義)的感情となり、それこそが本当に『文明の衝突』を誘発することになるであろう」と、著者は強い危惧の念を隠さない。
著者の考えを敷衍すると、観念のうえではともかく、歴史的にも実態的にも単一民族として存在したことのない中華民族なる妄想を軸にした妄動を即刻止めよ、となるはず。中国にもマトモな考えの持ち主が生まれてきたと喜びたい。だが問題、いや大問題は共産党政権が自らの生き残りを賭け“超巨大夜郎自大帝国路線”を驀進していることだ。《QED》