【知道中国 1053回】 一四・三・念二
――「言うだけ番長」では困ります
『中国が世界に深く入りはじめたとき』(賀照田 青土社 2014年)
著者は、「80年代以降の現代中国分析、および中国革命の認識構造の再検討の両面で、意欲的な論考を次々と発表している。いま東アジア全体でもっとも注目されている若手知識人のひとり」と紹介されている。話半分としても、これからの中国を考えるためには、やはり一読しておく必要があるだろうと、この本を手にした。
以前、何気なく読んだ著者の難解な文章を思い出しながら読み進んだが、確かに文体・用語を含め、日本語には訳し難いと思う。そこで生硬な訳文にならざるをえないだろうが、著書が現代中国の知的空間に抱く苛立ち、延いてはイケイケドンドン的な政治の動きに対し抱く危機感は、痛いほどに伝わって来る。
それは、次の発言からも容易に読み取れるはずだ。
「中国大陸学術思想界の一員として、私は常に焦燥、緊張、無力感に包まれている。その最大の理由は、物事を熟考し、中国社会に関心をもつ人文系のインテリとして、現在の国家体制の合法的な枠組の下で自分のアイディアを提供し、民族の未来のために責任をになう適当な場がみつからないこと」であり、「このような複雑な情勢を前にして、中国の学術思想界における知的ストックが頗る不足していることである」。そこで現在という「政治・経済・文化・社会・制度の重大な転換期において、様々な危機や困難に直面しているとき、諸説あっても、信頼性のある、実施可能な理論的枠組みが未だ現れていないことにつくづく気づくのである」。
著者は、その背景を「権力エリートと知識エリートのコミュニケーションの断絶」に求め、「国家権力への弁護に熱心な知識人」は、「重要で避けがたい現代中国の歴史の問題に対して、理解・把握・蓄積が少なく、少なからぬ人はどうしてこうした問題を認識しなければならないのか〔・・・〕について最低限の理解すら持っていない」と呆れ果てる。これを強引に言い換えるなら、共産党政権に擦り寄り、その周辺に群集い「偉大なる中華民族の復興」と意気軒昂にオダを挙げ、「中国の夢」なる妄想に耽っているヤツラは「知的エリート」を偽装する大バカで、知的粉飾商売に励んでいるに過ぎない、ということだろう。
かくして著者は続ける。
2012年に胡錦濤が「進路に自信を持ち、理論に自信を持ち、制度に自信を持つ」と語り、2013年に習近平が「全国各民族は、中国の特色ある社会主義の理論への自信、進路への自信、制度への自信を強め、確固たる態度で正しい中国の道に沿って前進しなければならない」と高らかに宣言したが、2代の「国家の最高指導者が述べた『三つの自信』をいくら検討しても、その正確な政治的・経済的・観念的意味を明らかにすることは難しいが、中国大陸の九〇年代以来の脈絡の中で考えたとき、一つはっきりすることがある。『世界とリンクする』観念の感覚に対して、明確に別れを告げたことである」――これまた強引に言い換えるなら、中国は世界を足下に置き、各国を睥睨する道に舵を切ったということだ。
暴走を止め中国破滅への道を防ぐため、著者は「中国の知識人は民族の運命を一身に担わなければならない」と自らが授かる崇高な責務を語り、「運命が既に戸を叩いている」と並々ならぬ決意を披歴する。その“悲壮な姿”は、歴代王朝末期に現れた憂国・憂憤の文人官僚や知識人を彷彿とさせるのだが、先人が辿った人生の悲喜劇に思いを致せば、呉々も敵前逃亡などというブザマな姿だけは曝さないでもらいたいと、強く望みます。《QED》