【知道中国 309回】 〇九・十一・念一
―絶え間なき統一工作・・・中台両岸京劇外交の一幕を
11月11日、台湾の伝統倫理文化発展協会の招請を受けて、中国和平統一発展促進会と黄埔軍校同学会とで組織した京劇芸術交流団が台北入りした。今回で4回目の訪台だ。
中 国和平統一発展促進会は、海外の華僑・華人社会を主たる標的にして台湾との統一に向けての世論作りを進める工作機関。一方の黄埔軍校同学会は、元を辿れば1924年1月の第一次国共合作成立後の同年6月に広州市郊外の黄埔長洲島に創立された黄埔軍官学校に行きつく。同軍官学校では校長を蒋介石、政治部主任を周恩来が務め、26年7月に始まった軍閥打倒・中国統一を目指した北伐の過程で卒業生が軍事・政治の両面で大きな働きをしていることは知られたところ。その後、国共対立に伴って卒業生は国民党と共産党の双方に分かれることとなるが、黄埔軍校同学会は85年6月に創立60周年を期して北京で設立されている。国民党政府が南京に創立した中央陸軍軍官学校、さらには蒋介石政権が台湾に逃げ込んで後の同校24期以降の卒業生も会員としている。黄埔軍校同学会設立の狙いは“第三次国共合作”への側面援助、いうならば統一工作なのだ。
そこで台湾側の伝統倫理文化発展協会ということになるわけだが、伝統倫理文化の頭に中華の2文字が隠れていることは明々白々。ならば狙いは統一しかない。だから京劇芸術交流団といっても、たんに北京の京劇団が台湾で京劇を公演するといった類の芸能界のお目出度い交流なんぞではなく、中華人民共和国と中華民国の双方で「国劇」と称されている京劇を“小道具”にした、搦め手気味ながらレッキとした統一工作そのものなのだ。
そこで注目すべきは演目は、京劇十八番ともいえる『三娘教子』に『四郎探母』である。
『三娘教子』は、かの孟母三遷の故事に倣ったもの。機織りをしながら義理の息子を育てるが、息子は義母のいうことを聞かない。塾の仲間からは「親なし」「本当の母親じゃないんだ」と虐められ、勉学意欲を失くし不平不満タラタラ。そこで彼女は織っていた布をハサミでジョキジョキと断ち切って、志を絶つことの愚かさを諭す。
義母の教えに発奮した彼は科挙試験に合格し高位高官への道を進む。どのような逆境に在ろうと志だけは捨てるな。捨てさえしなければ、やがて志は成就し夢は実現する――この舞台を統一派の外省人がみたら、おそらく義母が訴えた志を統一と看做すに違いない。彼ら式の京劇の観賞方法からいうなら、『三娘教子』は統一派への叱咤激励であり応援歌ということになる。
『四郎探母』の描く時代は宋代。西北方の国境を侵す蛮族に対し敢然と闘いを挑んだ楊一族の悲劇と栄光を描く『楊家将演義』が種本だ。楊家の四男は祖国防衛戦争の戦場で蛮族に捉えられ、蛮族の王女との結婚を余儀なくされる。それも生き抜くため。子供も生まれ、いつしか15年の月日が過ぎる。ふと四郎は、年老いた母が一族郎党の先頭に立ち大軍を率いて蛮族殲滅の闘いに出陣し、国境近くに陣を張ったことを知る。懐かしの母に会いたい。漢人の妻や子供、兄弟の顔を見たい。夫の苦衷を悟った蛮族の妻は軍法を破ってまでして夫を母の許に送ってやる。四郎が唱いあげる哀切を帯びた歌詞は、確かに泣かせる。
じつは国民党政権は外省人が「思親恋故」「動揺軍心」、つまり里心を募らせてしまうという理由で、49年から78年まで『四郎探母』の上演を厳禁していた。そしていま、大陸からやってきた役者が舞台の上から堂々と「思親恋故」「動揺軍心」を煽ろうとするのだ。
京劇の舞台といえども政治であり統一工作。油断も隙もあったものではない。 《QED》