【知道中国 307回】                                 〇九・十一・仲七

―鍛錬、修練、練磨。稽古に次ぐ稽古・・・それゆけ革命だ

『武術初級套路』(中華人民共和国体育運動委員会編 人民体育出版社 1976年)


 毛沢東が生涯を閉じた76年9月に出版されたこの本は、武術愛好者の自学・自習用といえようか。「初級長拳」「初級剣術」「初級刀術」「初級槍術」「初級棍術」を1冊に纏め、長拳(素手)、剣(細身の直刀)、刀(青龍刀)、槍(槍)、棍(棒)を使った武術の基礎を体系的に紹介し、初心者の稽古に適すように要領を得た解説がされている。武術の型に合せてイラストが付けてあり、それを見ているだけでも楽しくなる。
たとえば長拳のうちの「三、馬歩冲拳」をみると、両足を肩幅の倍ほどに開いて腰を落とし、左腕を腰ダメに、前に突き出した右腕の先から点線が右向きに付けられている。腕を右のほうに動かせ、ということだろう。このイラストを見ただけでも、「馬歩冲拳」の動きはほぼ想像できるというもの。そこで解説だが、「右足を前方に向け、つま先をやや内側に。上体を左にひねる。左の拳は腰の辺りに置き、蹲踞の姿勢をとれば馬歩になる。右腕を前方に激しく突き出す。視線は右の拳を追う。要点:馬歩をとる際は両の大腿部が真っ直ぐになるよう腰を深く落とす。両足膝下は平行に、踵は外側にして、胸を張る」

 イラストは写真とは違って必要な動きだけを明確に描いてあるので、じつに判り易い。中国武術のイロハを知るには手頃な案内書といえるのだが、出版された当時の情況を考えれば、リクツが付き纏ってしまうのは致し方のないこと。致し方なく「編者的話」を読む。

 「中国の伝統的民族体育」の1つである武術は、「わが国労働人民が実際の生活のなかで不断に築きあげ豊かに実らせた文化遺産である。旧社会において武術は反動階級に利用され、人民を押さえつけ蝕み、彼らの反動統治を強固にするための道具だった」。ここで不思議なのが、「わが国労働人民が実際の生活の中で・・・文化遺」でありながら、なぜ「反動統治を強固にするための道具」に成り果ててしまったのか。

 その点の説明が一切なされていないことだ。説明できないのか。説明するのは都合が悪いのか。それとも解りきったことなのか。とにかく「編者的話」は説明抜きで一気に新中国の時代へと筆を進める。

 「新中国成立以来、党と毛主席の慈愛のこもった関心と重視によって、多くの武術工作者は『古を今に用い、推陳出新(旧いものの中から陳腐なものを棄て去り、新しく有用なもの広めよ)』の教えに基づき武術運動を研究整理し、社会主義革命と社会主義建設の過程でより有益な役割を発揮するよう努めた」。さて、社会主義の革命と建設に武術はどのような積極的役割を果たしたのか。“若者よ、体鍛えておけ、その日のために”ということか。

 かくて文革、批林批孔運動でも武術は「新しい光彩」を放ったというが、「新しい光彩」とは、いったいなんなのか。これまた言語曖昧・意味不明。

 かくて訳がわからないままに、「体育は上部構造の一部分であり、プロレタリア階級とブルジョワ階級とが争う陣地である。だから、武術運動の発展においては階級闘争を基本とし党の基本路線を堅持し、修正主義を批判し、資本主義を批判し、反動的な孔孟の道を批判し、封建迷信思想を打ち破らなければならない。武術の鍛錬を通して体質を増強し革命精神を覚醒させ・・・」と、こうまでいわれると、いよいよもって言語明解・意味不詳。

 なにはともあれ、当時の中国では武術にすら「反動的な孔孟の道を批判」する任務を担わせたわけだ。それにしてもヘリクツの極。確かにヘンテコな時代だった。押忍ッ。  《QED》