【知道中国 304回】 〇九・十一・十
―“素晴らしき土地改革”で農民は積年の恨みを晴らす―
『蘇南土地改革訪問記』(潘光旦・全慰天 生活・読書・新知三聯書店 1952年)
毛沢東は「革命とは客をもてなすような、おしとやかで慎ましやかなものではない」といっていたが、この本を読めば確かにそうだと納得せざるをえない。現在では、一般に土地改革は「土地所有制度の変革。一般的には、少数の地主が集中的に所有している土地を、実際に耕作に従事する農民(多くは小作農)に分配し、自作農を創設する社会改革」(『岩波現代中国事典』岩波書店 1999年)と「おしとやかで慎ましやか」に伝えられているが、現実はさにあらず。まさに毛沢東革命=土地改革は1つの階級が1つの階級を殲滅するための血で血を洗う激越な死闘だったことを、この本は生々しく伝えてくれる。
中国の最高学府で知られる清華大学に勤務する2人の著者が「中央人民政府政務院及中共中央統戦部」の招請を受け長江下流域の江蘇省南部で進められていた土地改革の実情見学に出かけたのは、1951年2月22日。4月9日に北京に戻るまでの約1月半、現地で見聞きした土地改革の実情を、著者は克明に報告している。
この一帯では人口の2%しか占めていない地主が、村によっては96%の土地を押さえている。農民が血の汗を流して新しい田畑を開拓すると、地主は様々な方法で奪い取る。最も一般化している方法が私兵を使っての「豪奪」、つまり暴力で取り上げる。
次が超高利の地租や借金のカタに“合法的”に取り立てる「巧取」だ。農民には、地主の横暴に抵抗するスベがない。そこで「農民の背中には重い年貢に高い利子の2本の刀が刺さり、農民の目の前には身投げ、首吊り、牢獄の中の3本の道がある」といった歌が流行していた。
そこで「重い年貢」の実情をみると、「6株の稲のうちの3株は地主に渡す」と農民が訴えるように「正規租額」は50%。これが70%の例も見られた。地主は年貢を確保するため、豊凶作に関係なく予め取り上げてしまう「押租」、1年先の分まで前納させる「預租」などの方法を強制した。「大斛大斗」という方法は、同じ1斗升でも地主のものはバカでかい。そのうえ年貢を計る段になると、トントンと升の底を地面に打ちつけるから中身の籾は沈み、籾を余計に入れなければ地主の求める1斗にはならない。こうまでされたら、とてもじゃないが年貢が納められない。となると農民に待っているのは数々の残酷な仕打ちだ。たとえば「坐冷磚頭」は真冬に真っ裸にして後ろ手に縛り上げ地面に正座させ、重い石を膝に載せ、そのうえで冷水を頭から。「黒?魚」は農民を縛り上げ、この地方特産の太く鋭いトゲのある竹で編んだ籠に放り込んで蓋をした後、地面を激しく転がす。どんなに強情な農民でも、たちどころに音を上げてしまう。
そこで農民は地主たちを「邱要命(人殺しの邱)」「董抽筋(骨削りの董)」「蕭剥皮(皮剥ぎの蕭)」「顧?心(心臓抉りの顧)」などと呼んだ。禍々しい響きを持った渾名だ。
農民の恨みは骨髄に。毛沢東の「土地制度改革は中国新民主主義革命の柱だ」との掛け声に押され、農民は復仇に立ち上がる。恨みが深い分だけ地主への憎しみが増す。
共産党当局が「厳禁乱打」「厳禁乱殺」の厳命を下さねばならないほどに、地主とその一族は嬲りものにされ、ひたすら暴殺されたのだろう。人民裁判で死刑の判決がでると、その場で直ちに銃殺。「興奮のあまり群衆は『毛主席万歳』と雄叫びを挙げる」。おぞましきかな革命。
読むほどに心が重く、慄然としてくる。建国への道は暗澹にすぎるように思えた。 《QED》