【知道中国 1054回】 一四・三・念四
――やはり毛沢東と鄧小平は稀代の政治的ペテン師・・・なのかなあ
『中華人民共和国史十五講』(王丹 ちくま学芸文庫 2014年)
著者は1989年の天安門事件当時、天安門前広場で運動をリードした民主派学生のリーダーの1人である。98年に釈放されアメリカに亡命。ハーバード大学歴史系博士。アメリカや台湾で研究生活を継続。09年秋学期に台湾の国立精華大学人文社会学部で行った「中華人民共和国史」の講義が、この本の基になっている。3度、ノーベル平和賞候補に。
この本で批判の標的は専ら毛沢東と鄧小平の2人。これをいいかえるなら、民主派にとっての最大の敵は、この2人ということか。
先ず毛沢東の”遠大なる野望”について。「ブルジョワ階級の改造、そして民族ブルジョワ階級の的をしぼった政治運動、さらには党内のブルジョワ階級の一掃を呼びかけた『文化大革命』、これらすべては、毛沢東がすでに一九四九年に吐露した心の声にその手がかりを見出すことができるのである。それゆえ、以後に起きたこれらの運動のすべて、情勢に応じて始動したものということはできない。実際、これらは早くから実現を待っていたのだが、毛沢東の胸中を完全に理解する人がいなかっただけのことなのである」
次いで毛沢東の人間性について。「毛は他人に対する見方を心中深く秘匿し、時期を待って憤怒を表出することのできる人であった」
鄧小平の改革・開放路線いついて。「鄧小平ははっきり認識していた。一〇年に及んだ文革の混乱から、中共の統治を救う唯一の方法は、経済を発展させることである。対外開放し、外資を導入し、貿易を拡大することだけが、中国の経済を高度成長させることができるのである」
だが、「鄧小平の改革路線も新たな発明ではない」。じつは1948年の党中央から華北局に出された「われわれの任務は、資本主義の管理制度を批判的に受け容れ、その合理性と進歩性を引き出して、不合理と反動性とを取り除くことである」との指示に既に示されていたとする。だが著者は、鄧小平が示した南部沿海地域からの対外開放による経済成長路線は、19世紀末にインドネシアで大成功した華僑商人で後に清朝高官に取り立てられた張振勲の清朝経済振興策に酷似していることを知らない。実は鄧は、張をパクっただけなのだ。
鄧小平路線の「欠点は、階層ごとの格差を人為的に広げ、社会に深刻な不公平を招来した」。かくして「改革それ自身に内在する問題は、人民の不満を呼び起こし」、「党内保守派の動きはエリート階層の憂慮を誘った」。この段階で、鄧小平は支持基盤を民主派から保守派へと切り替えた。鄧小平の心変りが天安門事件の伏線だ。「いまや鄧小平は、民間の民主派の利用価値がすでに尽きつつあると感じていた。そこで勢い盛んに発展する民主派勢力の弾圧に、いよいよ着手すべき時が来たと決意を固め」、かくして党内外民主派に対する血の制圧へと突き進んだ。それを象徴するのが、天安門広場における惨劇ということになる。
最後に著者は、天安門広場に集まった学生による民主化要求が失敗した原因を学生の政治的未熟さに求めて、「実際、学生運動の指導しか念頭に置いていないにもかかわらず、外部の期待をよいことに、〔・・・〕政治運動の技術としての妥協の重要性を理解できず、社会の各種勢力と連合する必要性を認識することができなかった」と結論づけた。
「中共は、厳密な現代的意味で政党とは言い難い」って・・・気づくのが遅いよ。《QED》