【知道中国 297回】 〇九・十・念四
―「詩琳通公女」の中国大陸漫遊は続く・・・ナゼ?
今年7月22日午前、上海の金山ビーチに集まった皆既日食観測客のなかに詩琳通公女がいた。9時半頃だろうか。太陽が隠れ空が暗くなり始めると、彼女もまた天体観測機器を前に周囲の人々と共に感嘆の声を挙げる。それから30人ほどの随員を従えて古鎮塩宮に向い、川上からの流れとぶつかった満ち潮が怒涛の如く逆巻まいて轟音と共に川を遡る銭塘潮を目にして「とても素晴らしい」と語り、筆を執って「天下奇観」の4文字を揮毫する。
その3ヶ月ほど前になる4月初め、昨年の地震被災地である四川省北部を視察する。その日は中国人が祖先の墓参りをする伝統行事の清明節当日。まさにドンピシャ。そこで彼女は地震犠牲者を慰霊するために献花。その後、西安経由で廈門へ。廈門市長から同市の経済発展情況の説明を受けた後、廈門・華僑の両大学を視察。同月9日には北京に飛んでいた。これまでの訪中で彼女が写した写真を公開する「詩琳通公女眼中的中国(詩琳通公女の見た中国)」なる写真展の開会式に参加しテープカット。回数を重ね手馴れたもの。
08年8月、彼女は北京オリンピックで躍動する選手のパフォーマンスを堪能している。同年4月に青島、大連、ハルピン、長春を訪れた折には、北京で全国政治協商会議主席の賈慶林と面談し、「今回が25回目の訪中です」と自ら語ったそうだ。
その1年前の07年4月2日、北京のど真ん中を東西に走る長安街の北に位置する菖蒲河公園を散歩する彼女に向って、「本日は殿下の誕生日だということを承知しておりましたので、特に外交部に命じてこの場を選ばせ、お祝いを述べさせて戴きます」と恭しく言上したのは、彼女にとっては旧知の唐家璇元外相・国務委員だった。その後、彼女は青海省に向い青蔵鉄路でチベットへの旅。ラッサ市内視察を終えるや、武漢経由で浙江省へ。舟山市では「海天仏国」で知られる名刹の普陀山を訪れ記念植樹し、「友誼長存」と揮毫。向かった先の上海で名門・復旦大学において名誉博士号を授与され、「両国の科学技術、文化、教育交流促進のために献身したいと思います」と中国語で挨拶している。
じつは彼女はタイのプミポン国王次女で、国王に次いで国民的敬愛を集めているシリントーン王女。中国ではシリントーンの音を漢字音に合わせて詩琳通公女と綴る。そこで中国では、「中国通公女(中国通の王女)」とも呼ぶ。
彼女は1981年の初訪中以来、90年、91年、92年、94年、95年、96年、97年、99年(2回)、2000年(2回)、01年(2回)、02年、03年(2回)、04年(2回)、05年(3回)、06年、07年、08年(2回)、09年(2回)と中国各地を訪問(年のみ記入は1回)。西はカシュガル、東は吉林、北はロシアとの国境の黒河、南は海南島の三亜、西南はラッサと、中国側の鄭重な接遇を受けながら、ほぼ全土に足を運んでいる。01年2月は1ヶ月ほどの「語学留学」。この間、北京で李嵐清副首相、唐家璇外相ら中国政府要人に加え、北京滞在中のカンボジアのシハヌーク国王・王妃とも面談している。
今(09)年9月20日の入院以来、1927年生まれでご高齢の国王の体調は必ずしも順調に快方に向かっているというわけでもなさそうだ。いずれ彼女の兄君に当たる皇太子による王位継承となるだろう。とはいえタイ現行憲法第23条には、内閣提案・国会承認を経て「国会議長は王位継承者への即位を要請する」。「この場合、王女の氏名を提案することもできる」とある。タイで「中国通公女」が国王に就く可能性がないわけではない、のだ。 《QED》