【知道中国 1055回】                     一四・三・念六

――諸悪の根源は「ソビエト・ロシアの観念」だけではないだろう・・・に

『中国民主改革派の主張』(李鋭 岩波現代文庫 2013年)

 

1937年に共産党に入党。50年代には毛沢東の秘書を務める。大躍進批判の嫌疑で党籍を剥奪され、文革時には投獄されるが、79年に名誉回復。中共中央組織副部長、中央委員、中央顧問などの要職を歴任。91年からは改革派の雑誌である『炎黄春秋』に拠って論陣を張る――こんな経歴の著者が語る共産党の歩みとは、

 

■「中国人はソビエト・ロシアの観念を受け入れ、これがマルクス主義だと考えた。ロシア革命とロシア化したマルクス主義は、その始まりから神聖視された。中共党員は感情面でその大衆動員の手段と暴力的手段に強く入れ込んだだけでなく、その上それが後に樹立した専制主義の経済と政治の制度、残酷で鉄腕の党の制度に引き付けられた」

 

■「ロシア革命の経験であれ、ソ連の専制制度であれ、レーニン主義であれ、スターリン主義であれ、すべて自由、民主、公正、人権、法治の人類の普遍的価値に背を向けるものだった」。「人類の普遍的価値に背を向け、人類の文明は科学知識即ち智能に依拠して発展してきたという法則を離れるなら、どんな制度、どんなイデオロギーも自らへの弔鐘を鳴り響かせるほかないことを証明した。この結果に中共早期の創始者たちは考え及ばなかった」。つまり「中国人は間違った時に、間違った場所から、一個の誤った手本を移植した」からこそ、「人類の普遍的価値に背を向ける」共産党政権を生んでしまった。

 

■じつは「政権を握って以後、毛沢東と中共は完全にソ連のスターリンモデルに従って、経済上の独占、政治上の専制、イデオロギー上の世論一律の制度を打ち樹てた」

 

■「振り返ってみると、一九四九年から一九七九年に至るこの三十年は、正しく二十世紀の科学と経済の発展が最速最大の時期で、ここから知識経済の時代に向かった時代だった。だが我々は全くこれに背を向けて進み、国家はほとんど崩壊し、苦痛にみちた曲がった時代を進んでいたのであって、思い起こせば人の心を深く痛ませる」

 

■「毛沢東はどんな皇帝よりも厳しく、人は思想上彼に服従しなければならなかった。この点は世界の歴史上すべての皇帝がやらなかったことだ。劉少奇は言った。『共産党員は従順な道具となれ』と。〔・・・〕独立した人格をもたず、独立した思想をもたず、いかなる人も服従しなければならず、しかも心から思想上服従せよ、ということだ。〔・・・〕いささか自分で考える頭脳をもっていた人間も、本心でないことを語らねばならず、ニセ君子が要請された。だからこの一点は中国の特色で、世界のどんな国もこの一点をなしとげられなかった。毛沢東は中国でだけ生まれ得たのだ」

 

■1978年末、鄧小平の大号令を以って、毛沢東路線から改革・開放路線へと共産党政権は政策方針を大転換した。かくして「我が党我が国は、しだいに人類社会、歴史の進歩は、主として『階級闘争』、『階級独裁』によるものではなく、知識、科学知識即ち人間の知能によることを認識するようになった」。だが、「現在我々は経済面では変化したが、政治体制には変りがない。我々は三つの独占をもつ。一つは政治の独占、一つは経済の独占、三つめは文化思想の独占である」

 

――こう纏めると、現在の中国の根底にロシア化したマルクス主義に撫育された毛沢東=共産党があることが判る。そこで急務は、毛沢東=共産党をここまで肥大・凶暴化させた根本要因の所在を突き止め、「毛沢東は中国でだけ生まれ得た」ことの根本病理を解き明かすことだろう。だが、「我が党我が国」などといった表現から感じられる「党」を「国」のうえに置き、飽くまでも「党」に優位性を持たせる著者の共産党的思考体質からするなら、民主化された中国など夢のまた夢、そのまた夢の超白日夢・・・でしょうね。《QED》