【知道中国 1056】                       一四・三・念八

――ならば、いまこそ君たちの台湾民主化経験で“大陸反攻”を

『台湾68年世代、戒厳令下の青春』(鄭鴻生 作品社 2004年)

 

著者は「白鷺が水田に舞う」台南に1951年に生まれた。「両親は基本的に日本植民地教育を受けた『失語の世代』であり、我々との間でコミュニケーションは不可能であった」。著者が学んだ台南一中では、「数年来、当局は対岸の『文化大革命』に対抗するため『中華文化復興運動』を推し進め、スローガンと教条訓話を垂れるばかりで、作文、講演、朝礼、そして壁の標語ですべてが覆い尽くされていた」

 

著者は仲間と読書会を立ち上げる一方で、国民党に入党する。「我々が読書会をやっていた一九八六年の台湾、その空気は鬱々と淀んでいた。台南の地方政治は腐敗の一途であった」。やがて読書会の仲間から表紙のない本を借りる。それは「ある米国の記者が第二次大戦前後の中国の戦場を訪ねたルポで、当時の国府と国軍がいかに腐敗していたかが赤裸々に書かれており、すぐに台湾の当時の状況と重なったが、まさに『腐敗無能』の政権であった。この時から私は二度と国民党に期待を持たなくなった」

 

著者は国民党独裁、つまり国家の全権が党の支配下に置かれた台湾を「党国権威体制」と呼び、当時を「台湾の窒息する時代」と形容する。そんな時代、台湾大学のなかでも「思想に自由があり、気風の開放的、そして活気に満ちていた」哲学系に学んだ著書は、文革中に大陸から強力な電波で伝えられる「勇壮な声」に否応なく好奇心をくすぐられた。

 

「民国五十九年(1970年)秋、台湾の新聞雑誌などで釣魚台列島のことが取り上げられ、問題がにわかに浮上してきた」。当時の台湾では、「釣魚台列島は日本統治時代に宜蘭県に所属する島として登録されて」いたことを根拠に、アメリカが沖縄返還に際し「釣魚台列島も琉球の一部分として(日本に)譲り渡そうとした」ことに関し、「政府に対して立場を明確にするよう求めた」。だが「長年に渡って日米両国と『反共同盟』を組んでいることから、また彼らの保護にある国府政府は態度を明確にできず、そこで釣魚台問題が引き起こしたナショナリズムは、かえって党国体制の正統性にとって厳しい挑戦となっ」てしまう。

 

1971年4月、在米留学生がワシントンで挙げた「保衛中国領土釣魚台(保釣運動)」の声は台湾に伝わり、「民族感情の怒り」は「内には腐敗、外には弱腰」の?介石率いる国府政府への怒りとなり、党国権威体制に激しい不満と怒りを抱く学生の間に「激烈なナショナリズム」を呼び起こした。やがて「海外保釣運動の主力が中国統一運動に向かう一方、台湾島内の保釣運動の力はすぐさまキャンパス民主化運動に転化した」のである。

 

おりから台湾をめぐる国際情勢は風雲急を告げる。「国連脱退が党国体制への信用にもたらした動揺によって、台大人は言論自由を獲得」した。「保釣運動、ニクソンの大陸中国訪問、中華民国の国連からの脱退など一連の事件の進行において、国府政権の民主化運動はにわかに切迫したものとなっていった」というのだ。因みに「台大人」は台湾大学人の意。

 

著者によれば、台湾における尖閣問題は全面的な反日運動に向かうことなく、台湾大学内の民主化運動を通じて党国権威体制への批判運動に昇華され、国民党独裁を崩壊させ、台湾の民主化に結実していった、とのことだ。

 

著者らが台湾大学の民主化運動に青春の血を滾らせていた時代、台湾海峡を挟んで「自由中国」と「人民中国」の2つの中国が存在し、双方が共に相手を人民を搾取・抑圧していると偏執狂的に非難・罵倒し、抑圧に呻吟する人民を“解放”することを国是としていた。じつは党国権威体制は自由中国の台湾だけでなく、人民中国の大陸でも同じだった。だから、「窒息する時代」は台湾だけでなく大陸でも、いや大陸ではいまなお継続している。

 

最後に疑問。同じ党国権威体制ながら、台湾と違い、なぜ大陸では尖閣問題が激しい反日レベルのままに終始し、肝心な民主化に向かわないのか・・・謎の中の謎。《QED》