【知道中国 1066回】 一四・四・仲八
――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野9)
「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)
ともあれ香港で、中野も「解放されたようにホッとした顔つきになり、買い物をしたり、ごちそうを食べたり、酒を飲んだり、インバイを買ったりして、ノビノビと手足をのばした」のかどうか。ゴ本人が「こんなことも私たち一行には全くなかった」と綴っているわけだから、品行方正のままに香港を後にしたと思いたい。だが、帰国後にひと悶着起きた。
一行のうちの山本健吉や本多秋五が発表した中国での経験――誰々に会って、これこれの話をした、とか。中国側の誰それは、じつに横柄で誠意が感じられなかった、とか。誰それは、どうにも油断がならないとか――に対し、それはオカシイ。それは日本側の誤解だ。相手の立場というものを忖度すべきだったなどと、中野は丹念に反論を繰り返す。ということは、同じく日本文芸家協会の会員で日本文学代表団として訪中した間柄ながら、とどのつまりは同床異夢だった、ということだろう。
山本や本多への批判に続いて中野は、自らの中国体験・印象に基づいて、フランス人記者のロベール・ギランが1955年の中国体験を記した『六億の蟻』に食って掛かった。当時、中ソ関係がちょうど微妙な段階に差し掛かっていたことを念頭に置いて考えてみると、時代の変化を感じ取ることが出来て興味深いので、やや冗長な引用が続くが、ギランの記述に対する中野の見解を追いかけてみたい。
その前に、当時の中ソ関係を簡単に記しておく。
1953年3月のスターリンの死から3年が過ぎた56年2月、ソ連共産党第20回大会で当時のソ連指導者のフルシチョフは突如としてスターリン批判を展開し、対米平和共存路線への大転換を表明。かくして、社会主義陣営を2分する中ソ論争の幕が切って落とされた。
中野らの訪中と時期が重なる57年10月、ロシア革命40周年記念式典出席のためにモスクワに乗り込んだ毛沢東は、モスクワ大学で留学中の中国人学生を前に、「東風は西風を圧す」と説いた。東風は社会主義陣営、西風は欧米資本主義陣営を指し、社会主義の優位性を力説し、フルシチョフの平和共存路線を批判したといわれる毛沢東の講話だが、やはり東風は毛沢東の中国、整風はフルシチョフのソ連を暗示していると考えるべきだろう。フルシチョフ何するものぞ。毛沢東の荒い鼻息が伝わってくるようだ。
それから9か月が過ぎた58年7月、北京における中ソ首脳会談に臨んだ毛沢東は、フルシチョフが提示した中ソ共同艦隊建設提案を拒否した。59年6月、ソ連は原爆供与に関する中ソ国防用新技術協定を一方的に破棄した。しっぺ返しである。同年10月に北京で再び行われた中ソ首脳会談では意見が一致せず、共同声明が出されることはなかった。以後、社会主義・共産主義をめぐって激しい非難の応酬となり、69年には、両国国境のウスリー島(中国名で珍宝島)で全面衝突一歩手前ともいわれた武力紛争にまでエスカレートする。
つまり同じ中国滞在ではあるが、ギランの場合はフルシチョフのスターリン批判の数か月前。一方の中野は、毛沢東による「東風は西風を圧す」と同じ時期に当たる。
先ずは「私は幸運にも、もうすでに、二十年近くも中国を知り、観察する機会をもった。日本占領当時一九三七年から三八年に中国に滞在し、次いで、戦後一九四六年、アメリカ軍による解放直後、再び短期間訪問し、最後には、一九四九年四月から十一月まで上海で暮らした。そして、新しい『解放』、共産軍による上海の解放という歴史的な事件を目のあたりに見ることができた。新制度下で五ヶ月暮らしたわけである。そして、いままた新中国を訪れての最初の印象は・・・」と、自らの“豊富な中国体験”を語るギランだが、戦争期の日本にフランスのアバス通信社(現在のAFP)支局長として滞在し、かのゾルゲ・尾崎スパイ事件に絡んで疑惑を持たれていたことを、参考までに記しておきたい。《QED》