【知道中国 1032回】 一四・二・初二
――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の7)
「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
夕刻に羽田を発った中島は「朝七時半に九竜の空港におりて、ゴールデン・ゲート・ホテルの一室に落ちつくひまもなく」、中国側から、その日のうちに中国入りせよとの指令を受け取る。
中島が投宿したホテルは漢字で金門酒店と表記し、九龍の先端に位置する尖沙咀の外れにあった。金門酒店といえば、香港留学時に大いに利用させてもらったことを思い出す。それというのも、ロビーには数日遅れながら日本の新聞が置かれていたからだ。当時、香港でも1日遅れながら日本の新聞は売られていた。だが、販売する場所が限定されていたうえに貧乏留学生が気軽に買えるような値段ではなかった。そこで時に金門酒店のロビーを覗いて、数日から1週間ほど遅れた日本の新聞を貪るように読んだわけだ。
ホテルの間口は幅10mほど。中国系資本の経営で、特にこれといった装飾が施されていたわけでなく、今風にいうならビジネス・ホテルといった雰囲気。海外からの観光客が利用するような観光客用ホテルではなかった。正面のドアを開けると右手に小さな日本料理屋があり、一目で日本人ビジネスマンと判る客が大半だったように記憶している。例外なく共産党の対日施策に忠実に従う「友好商社」と呼ばれた中国ビジネス専門商社の社員で、金門酒店の利用が中国側から半ば義務付けられていたような口ぶりだった。そこで勘ぐってみるなら、このホテルに入った時点で既に中国側の監視が始まっていたと考えて間違いなかっただろう。中島であったとしてもて例外はゆるされない。監視されていたはずだ。
その後、香港に行く毎に暇をみつけては金門酒店に足を運んでいたが、いつしか消えていた。いつ消えたのか。確かな記憶はない。だが、長期にわたって日中ビジネスを支えてきた友好商社がその役割を終えて退場し、大手商社が正面切って本格参入するようになった70年代の末、いわば中国が改革・開放に本格的に舵を切った頃のことだったように思う。
中島は「東京から北京に行くのに、わざわざ香港をまわらなければならないというのは、不自然なことである。要するに、国交がまだ正常化されていないからだ」と、「国交がまだ正常化されていない」ことの責任が専ら日本政府にあるような口吻で“怒り”をぶちまける。常識的に考え日本政府だけに八つ当たりしても意味ないことだろうが、こう記すことで、日本の読者に「わざわざ香港をまわらなければならない」責任の大半が日本政府にありといった誤解を与えようという魂胆なのだろうか。それとも中島は素直に、そう痛感していたのか。まあ、どちらにしてもバカとしかいいようのない話だが、当時の“日中友好工作員”は歴史的な常識を欠いたまま、一方的に洗脳されていたのだろう。
中島のトンチンカンな認識の一端は、「九竜半島の英国の九九カ年の租借権は、やがて切れるはずである」との“断言”に見て取れる。英国植民地たる香港は地理的にいうなら香港島と九龍と新界の3つの部分から成り立っており、香港島は1840年勃発のアヘン戦争戦後処理としての南京条約(1842年)によって、九龍は第二次アヘン戦争と呼ばれたアロー号事件がキッカケの北京条約(1860年)によって、共に清朝からイギリスに割譲されている。残る新界は、1898年から始まる「九九カ年の租借権」に基づいてイギリスが租借した。つまり法的立場に基づくなら、香港島と九龍は永遠にイギリスの領土であり、中島が記す「九竜半島の英国の九九カ年の租借権」は事実と異なっていることになる。
「とにかく、このまま九竜半島が中華人民共和国に返されたとしても、別に不自然なことはなさそうだ」と感じながら、中島の「足は、ひたすら前向きに動いていった」。中国側に入るや目に飛び込んできた光景に大感激。「その時の印象は、まことに強烈であった。あざやかな赤い色! 赤い布をまいた柱、赤い旗、赤いポスター」。病膏肓・・・です。《QED》