【知道中国 938】                        一三・七・仲九

――「蒙疆にまではみだしてゆく生活力にはおどろくほかはない」

「朔風紀行」(尾崎士郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

大長編小説の『人生劇場』を著した尾崎士郎(明治31=1898年~昭和39=1964年)が万里の長城を越えて朔北を旅した昭和15(1940)年は、紀元二千六百年。日米開戦の1年前である。

7月に近衛内閣が発足し、9月には大政翼賛会が組織される一方、日独伊三国同盟も結ばれた。かくて日米関係は回帰不能点に向かって突き進む。中国においては汪精衛が1月に蔣介石に対日講和を勧告し、3月には南京に国民政府を成立させるなど、日中間も抜き差しならぬ情況に陥りつつあった。ついでにいうなら、フランスのビシー政権が日本側の要求を受け入れたことから、9月には日本軍は仏印(ベトナム)のドンタンに進駐している。

北京を発って張家口を目指す列車に乗り込んだ尾崎は、先ず「蒙疆まではみだしてゆく生活力はおどろくほかない」と記す。やがて「大同を過ぎると。どの駅にも警備隊が物々しく警戒している」。さらに進むと「山かげから馬に鞭って」匪賊が襲撃して来る地域だ。

かくも危険ながら、日本人は「蒙疆まではみだしてゆく」。だが、そんな中にも、尾崎の眼から見て好ましからざる人物は少なくなかったらしい。なんでも「小駅の一等地は三分の二、もしくは四分の三の割合で日本人が権益を占めてしまっている」のだが、そのうえに「おどろくべきことは売笑窟の親爺が日本人会の会長であり、淫売屋の店頭に『日本人会本部』『産業組合事務所』――と大きな看板のならんでいるところもある」。

ここは占領地区だが、敵が完全に掃蕩されたわけではなく、現地民衆の眼も厳しいうえに戦場にも近い。そこで「軍は極度の警戒をもって不良日本人の侵入を防いでいる模様であるが彼等は何処からともなくずるずるとすべりこんでくる」。こういった「占領地区の小都会に跋扈する不良日本人」について、北京で会った旧友は尾崎に向かって、「一言で言えば彼等は立派な仕事をしなければならぬというヒロイズムがない。支那の民衆も戦争から生じた被害はあきらめている。しかし、彼等の生活を根こそぎに奪ってゆく小商人の陰謀にはあきらめきれないものがあるのだろう」と告げたそうな。

その友人は、「私が一ばん恥ずかしい思いをしたのは山海関から北支に入るとき駅員が呉れる注意書の小冊子を一読したときであった。その中には、支那人は日本人を貞操観念の稀薄な、男女関係において規律のない人種だと思っているから特にその点を注意して欲しいと書いてあった」ことだったと、尾崎に述懐している。

友人は北京を拠点に軍の宣撫工作に携り、仏教の布教によって一帯の村落で農民に強い影響力を持つキリスト教勢力を排除しようとしているのだが、なかには「すぐれたカトリック教会の坊主」もいて、「政策化された宗教ではどうにもならぬということを痛感」している。「すぐれたカトリック教会の坊主」の感化力に対するに、「占領地区の小都会に跋扈する不良日本人」や「彼等の生活を根こそぎに奪ってゆく小商人の陰謀」――

やがて包頭着。同地が「陥ちたのは一昨年の冬であり、第一線という認識に馴れてしまっているためか街の住民たちはみんな呑気に構えている。「それにしても、町を歩いていると日本人の多いのに驚く。菓子屋があり、クリーニングがあり、芸妓屋はもちろんあるが、ふと通りすがった裏町に『女かみゆい』という看板」まであった。包頭の先の大同では有名な石仏を見て廻ったが、「この裏の山を一つ越えると未だに共産第八路軍が出没しているそうである」。にもかかわらず、さらにその先の張家口では「北京からはみだして日本人の数は毎日大へんな数にのぼるであろう」し、そこは「火事場泥棒で埋っているという」。

不良も火事場泥棒も呑み込んで、日本人が生活力に満ち溢れていた時代だった。《QED》