【知道中国 940】 一三・七・念三
――「支那の堕落を曝しているようで見苦しい」(長与の上)
「魯迅に会った夜」(長与善郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
『青銅の基督』『竹澤先生と云ふ人』などで知られる白樺派の長与善郎(明治21=1888年~昭和36=1961年)は、「そうですな。杭州で、一と晩泊まりくらいで見てくる所って云うと、まず・・・・・」と「満鉄上海事務所長の石井さん」から教えられ、杭州の雲林寺を訪ねている。昭和10(1935)年5月のことだった。
4月には満州国皇帝の溥儀が日本を訪問し、天皇機関説のゆえに美濃部達吉の著書が発禁処分となり、7月には相澤中佐による永田軍務局長刺殺事件が発生し、陸軍中枢の派閥争いが国政に強い影響を与えはじめた。中国では11月に段汝耕を筆頭に据え冀東防共委員会が発足し、12月には徳王が蒙古の独立を宣言するなど、親日勢力が動き出す。一方、国民党の猛追撃から逃れ切った共産党が延安に逃げ込んで一息ついたのは、この年の10月だった。
名刹の誉れ高い雲林寺だが、「俗悪とまで行かぬ莫迦莫迦しく巫山戯けた中実をれいれいと飾っている本堂」が象徴して居るように、一々見て歩くことを、長与は「時間の徒費」と思うようになった。
「ここに限ったことではないが、少し支那を歩いて巡ると、よく箱庭趣味と小細工を難ぜられる日本人よりは、支那人の方がその点にかけてむしろ輪をかけていて、矢鱈に人工を弄したがる国民である」と考えた長与は、そこから中国人の「俗悪とまで行かぬ莫迦莫迦しく巫山戯けた」振る舞いを、日本と比較してみる。
「一つは天然自然そのものが既に幾分箱庭式の手の込んでいる日本と異なって、どこ迄も大陸的にのっぺらぼうな所の多い支那では、つい美術国たるその腕を自然に加えたくなるのに由るであろう。又一つは文字の国で書はお手のものという自信からも来ていよう。日本人ならば只苔を蒸さしただけで放っておく処を、岩とみれば必ず字を彫り、仏像を刻んでいる」。くわえるに「古い六朝から隋あたりのものだと」「第一に精神に邪念がないから結構至極」だが、「何ら芸術の鑑識も信仰もない清朝末世の心ない俗民までが徒に古の伝に倣って或は只客足を牽ぐための金銭の欲にかまけ、或は自家広告のために可惜景勝の天然を突っつき毀しているのはいかにも支那の堕落を曝しているようで見苦しい」と語る。
ここ数年来、中国各地に、パリやニューヨークなど欧米の有名都市の街並みをパクッた俗悪極まりない街並みが出現している。「どこ迄も大陸的にのっぺらぼうな所」に莫大なカネを注ぎ込んでパリやニューヨークを作ろうというのだから、成金趣味であれ欧米への憧れであれ、もうそれは「俗悪とまで行かぬ莫迦莫迦しく巫山戯けた」ことでしかない。
しょせんニセモノは何処まで行ってもニセモノでしかないはずだが、ニセモノを山塞(パクリ)文化などといって胸を張る彼らである。だから長与のことばに倣うなら、現在の中国人は「何ら芸術の鑑識も信仰もない清朝末世の心ない俗民」と同じと見たほうがよさそうだ。21世紀初頭の「心ない俗民」もまた、「客足を牽ぐための金銭の欲にかまけ、或は自家広告のために可惜景勝の天然を突っつき毀している」ことになる。確かに「見苦しい」だけではなく、中国の「堕落を曝している」ようにも思えてしまう。
だが、考えてみれば毛沢東の時代に毛沢東思想という唯一神への拝跪を徹底して叩き込まれ、「芸術の鑑識も信仰」もブチ毀されてしまったわけだから、「俗悪とまで行かぬ莫迦莫迦しく巫山戯けた」行為を繰り返したとしても、それはそれで“自業自得”であろう。
上海に戻った長与は「新聞連合の松本君」に案内され、魯迅と宴席を共にする。《QED》