【知道中国 941】                        一三・七・念五

――「支那の堕落を曝しているようで見苦しい」(長与の中)

「魯迅に会った夜」(長与善郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

「新聞連合の松本君」とは、上海に駐在し37年に勃発した西安事件――張学良と楊虎城による蔣介石を逮捕・軟禁――を逸早くスクープし、世界に配信した松本重治のことだろう。その松本に先導され、長与は指定された料理屋に先に行って待った。

暫くして招待者の内山書店主人夫婦などがやってくる。「一足遅れて矮軀粗髯道骨蒼白、弱々しいが眼光一癖ありげな所、正にわが犬養木堂と云った感じの支那紳士が尚二人ばかりの連れと這入ってきた。云うまでもなくこれが魯迅であった」とのことだが、「矮軀粗髯道骨蒼白、弱々しいが眼光・・・わが犬養木堂と云った感じの支那紳士」の件は、魯迅の姿を髣髴とさせるに過不足のない見事な形容である。流石に長与、目の付け所が違った。

「無論少しも肩の凝るような会ではなく、気はおけず、人の感じは甚だいいといっても一体こう云う人に逢ってもいきなりそう話のあるものでもない」。そこで魯迅の弟で「北平大学教授で・・・日本文学史の研究に没頭している音無しいこと限りない温厚な無口屋である」周作人について話をした。弟の周作人ほどに日本語は上手ではないが、普通の日本語会話には不自由はないので、魯迅とは日本語での会話となる。

その席で受けた印象を長与は、「この創作家の兄さんは腹の底に欝勃たる火を持って悩んでいる情熱と神経と何かの思想の持ち主であることはそのギコチない寸言断語の中に鋭くひらめいている」と綴る。

「刺々しく笑」いながら、中国にはものを書く自由がないといった意味のことを喋る。

長与は「もう少し明るい物柔らかな大家」で「悩みは悩みとして奥底に抱いていてももっと深い教養が年輩らしくそれを包んで、一見恰も温厚な平凡人の如く見える人を想像していた」が、目の前の魯迅は「いかにも険しく、暗い、圭角凌々たる感じであるのが少しも悪い印象にならぬながら何となく傷ましく思われた」のである。

「実際考えればそれも無理はない」。「現代支那の思想家は、国民政府のやり口に聊かなりとも不同意を表す限り、忽ち・・・藍衣社のピストルに撃たれ」てしまう。藍衣社とは蔣介石配下の特務機関であり、検挙、審問などといった手間のかかることはぜず、反蔣分子は「直ちに生命が奪われるのであ」った」運命にあった。

魯迅を含む「現代支那の思想家」を取り巻く情況を長与は、「自分はかの竹林の七賢人や、支那古来の数知れぬ学者名賢の徒が横禍を免れるために、或は風狂を装い、或は癡人に化けて山林に隠遁した理由を目のあたりに見る心地がした。現代の支那でもその事情は二千年前と些しも異なっていないのである」と受け取る。

その席で持ち出した孔子の話題に「いかにも道楽談でも聞くような冷淡な応答ぶりであった」魯迅の心の裡を、「支那に生まれて、最も愚劣に形式化された儒教を子供の時から押しつけられて、それに対する反感のみが牢として抜くべからざるものとなっているとは無理からぬこととは云え、気の毒なものに思わずにはいられない」とは、長与の嘆息だろう。

「『ここへ来る道で今、樟の立派な棺を見たら、急に這入りたくなって了った』/飯が運ばれる頃、魯迅はやっと軽く箸を執りながらそういった。その咄嗟は無論冗談のように見せていた。が、その余りに尖った虚無的諧謔? は冗談にはならなかった。一座は笑わんと欲して笑えず、妙に白けて了った」のである。

宴席で長与が言葉を交わした翌年10月、魯迅は死んだ。窮死、憤死、諫死、涸死・・・。

――50年代半ば、「魯迅が生きていたら如何」と側近に問われ毛沢東は躊躇わず、「あんな五月蝿いヤツが生きていたら、今頃は殺されているか牢獄だ」と。ありえない話ではない。だが毛沢東は魯迅を一貫して文化戦士として讃え続けた。表向きですが・・・ネッ。《QED》