【知道中国 942】 一三・七・念七
――「支那の堕落を曝しているようで見苦しい」(長与の下)
「大同」(長与善郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
日米開戦2ヶ月前の昭和16年10月にはマニラでは米・英・中・蘭の4ヶ国による軍事会議が開かれた。ABCD包囲網による対日軍事連携である。同じ10月の9日朝、長与は北京駅を発って大同に向った。
汽車は「蒙疆、即ち蒙古連盟自治政府という妙な名前の領域」に入り、居庸関を経た先の「有名な八達嶺」の駅に停車する。蒙古連盟自治政府とは、昭和14(1939)年11月に日本側の肝いりで親日派の蒙古王族である徳王を主席として発足した親日政権で、正式には蒙古聯合自治政府と呼ぶ。
汽車が停まっている間に密輸業者らしき者の逮捕劇を目撃したが、荒々しい態度の検査官に対しても犯人に悪びれた様子は見られない。「土台図々しく、生易しい温情主義などでは実際取締れず、支那人自身の警官でも矢張り殴る所なのだろうと思った」。それというのも、「現に支那人の警察官が洋車曳きが五月蝿く客にせびるというだけでぴしぴし鞭で殴り、一方は又いくら殴られても平気で客に乗車をせびる光景を僕は嘗て揚州で見たことがある」からである。「土台図々し」い。だから「生易しい温情主義」は返って仇となるわけだ。
「蒙古の奥から北京に通う駱駝の隊商の中継駅であり、今は蒙疆政府の所在地」である張家口に到着する。その印象を「殆ど完全に漢人化された蒙古人の見穿らしい馬具屋なぞがぼつぼつ見えはするが、考えてみれば実際に於て支那内地同様のこの町が、今だにそんな濃厚な蒙古色を留めている筈もない」と綴っている。「馬具屋なぞが」「見穿らし」かろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。注目すべきは「殆ど完全に漢人化された蒙古人」と見抜いたことだろう。
「蒙疆政府の所在地」とはいうが、住人は「殆ど完全に漢人化された蒙古人」であり漢人なのである。だから張家口は「支那内地同様のこの町」だった。清朝時代を通じ、食い詰めて故郷を棄てた漢人は怒濤のように満洲の沃野に入植し農地を切り開き、蒙古では牧畜のための牧野が農地に浸食され、いつか知らぬ間に彼らは満蒙の地を自らの生活の根拠地に“大改造”していた。満蒙、蒙疆とはいうものの、漢人の土地に変じていたのだ。
張家口から大同までは「いかにも朔北という語を想わせる満目蕭条である。何か種子位は蒔いてあるのか、唯涯しもない坦々たる黄土のうねの間を時々、同じ色の大きな兎が汽車に驚いて走るのを見る位のものである」。やがて「単に風景としての印象からいうと、・・・平地の中にポツンとある廃都といった感じ」の大同に到着する。
翌日、雲崗の石窟行きのバスが出るまでの時間つぶしに、有名な寺や道具屋を見て回ったが、「何一つ碌なものはない。絵はがきでも買おうと雑貨店に這入ると、本屋を兼ねていて、岩波新書の僕の本まで並んでい」たという。
満州事変勃発から10年、盧溝橋事件から4年が過ぎ、日米開戦前夜の大同の雑貨屋で、いったい誰が長与の書いた岩波新書を買うというのだ。それにしても、どんな流通ルートを辿って岩波新書が大同の雑貨屋の店先に並んでいるのか。考えるほどに不思議だ。
「いよいよバスは出た」。「雲崗まで約一時間足らず」。やがてバスから降り、石窟に入り無数の石仏に対す。「それからの二時間を・・・唯ただ貪り観ることで夢中に過ごした」末に、「漢民族と、その文化の個性の根強さというものを思わずにはいられない」と呟く。
それから8年後の1949年、中華人民共和国の誕生だ。日本人は「漢民族と、その文化の個性の根強さ」――長与のいう「文化」に、敢えて「接待」の2文字を冠して「接待文化」と呼んでおく――に籠絡され、新たに誕生した国を「道徳国家」「道義国家」などと思い込まされてしまう。その後遺症は現在もなお癒えることなく、日本を翻弄し続ける。《QED》