【知道中国 943】 一三・七・念九
――「中国第一印象」が・・・これだッ(米川の上)
「目覚めた獅子」(米川正夫 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
おそらくロシア文学者の米川正夫(明治24=1891年~昭和40=1965年)は、日本人としては可なり早い時期に“新中国”を訪れ、籠絡された1人だろう。
米川は旭川第7師団や陸軍大学でロシア語教官を務め、陸大在籍時の1927年には十月革命10周年に招待を受けソ連を訪問し、日米開戦の41年には「依願退職」という形で陸大を事実上解雇されている。トルストイやドフトエフスキーなどの翻訳・研究の第一人者ということだが、旭川第7師団や陸軍大学でどんな教官だったのか。興味深いところだ。
先ず米川は「私は今度はじめて北京に来て、中国の社会主義革命が一種独自の形で行われているのを感じた」と述べ、そうなった要因を「毛沢東の指導によることではあろうけれども、中国の国民性から来た点も少なくないと思う」と、中国の国民性と社会主義革命との相性の良さを強調する。社会主義革命は国民性の当然の帰結だ、ということか。
彼は53年10月1日の国慶節の式典に参加するが、「(天安門)広場は赤旗の波であったが、この赤旗がここでは血を連想させるような殺伐さを感じさせない」とし、「誰もが知る如く、中国の人民は古来赤色を愛して、これを慶びの色としているので、広場に林立している赤旗も、伝統的な国民的な赤と完全な調和の中に融けこんでいる」と大感激の態だ。
「デモの群集が運んでいる標語」を見ても、「殊に砕けた美しい行書の金文字で記されたものなど、床の間の懸軸か聯を鑑賞しているのと、やや共通した気分を起させる」。デモの群集が持つ造花は「さながら生きて動く花園の観を呈し」、「更に平和的な感じを強めるのであった」。天安門の楼上に立つ毛沢東の前にさしかかると、「群集は高く楼門の上を振り仰ぎ、しばし歩みをとどめて、歓呼の叫びをあげるのだが、この熱狂ぶりも単純素ぼくな美しさを含んでいる」――なんともはや、手放しの感動であり讃仰ぶりである。
戦前、米川が中国人をどう見ていたのかは判らない。だが、彼が天安門広場で目撃した中国人の溌溂とした姿は、戦前に中国を歩いた多くの日本人の旅行記に登場する不潔で、狡猾で、騒々しく、無気力な中国人とは、全くと言っていいほどに違っている。数千年の時間を経て鍛造されてきた彼らの民族性が社会主義革命を潜り抜けただけで一瞬のうちに変わるわけはないはずなのに、米川の文章には戦前の日本人が抱いていた中国人に対するマイナスのイメージは皆無である。いや、それに止まらず、中国人の鷹揚さに対する驚嘆ぶりが溢れ返っている。
「中国へ着いて第一に感じたことは、この国の人が非常に鷹揚だということである」
「この中国の鷹揚さは革命遂行の面にも現れている。例えば、ソヴェートの十月革命は一挙にして皇帝を葬り、貴族、資本家を滅ぼしたが(これは極端に走り易いロシアの国民性にもよる)、中国では今日なお資本家の存在を許容している」
「ともあれ、これらすべては中国人の大人的な鷹揚さ、清濁あわせ呑む的な包擁性の現われであることは間違いない」
中国人の「大人的な鷹揚さ」と「清濁あわせ呑む的な包擁性」が「ソヴェートの十月革命」とは異なった革命を中国で実現させたとでもいいたがに、毛沢東率いる中国共産党による革命が「大人的な鷹揚さ」と「清濁あわせ呑む的な包擁性」の対極にあったことは、たとえば土地革命における地主に対する残虐非道な処分をみただけでも明らかだろう。
いったい何を根拠に、「この中国の鷹揚さは革命遂行の面にも現れている」と感動したかは不明だが、一連の“寝言・戯言”が後の日本の中国認識の方向づけをしたように思える。毛沢東に指導され中国は道徳国家として翻身(面目一新)したって・・・そんなバカな。《QED》