【知道中国 944】                        一三・七・三一

――「中国第一印象」が・・・これだッ(米川の下)

「目覚めた獅子」(米川正夫 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

「中国人の大人的な鷹揚さ」の一例として米川は中国における撮影の自由を挙げる。「写真機をもってソヴェートへ入ったところ、たちまち封印されてしまった」。「ところが、中国ではそうした制限はなく、楽しい旅行の記念を自由にカメラに収めることが出来た」と感激一入である。

こういってしまったことで何か後ろめたさでも感じたのだろうか、米川は「ソヴェートを貶めている」わけではない態々断わったうえで、革命の先駆者であり人民民主国の指導者であるからこそ「責任が重大」であり、それゆえに「ある点では神経質にならざるを得ない」とゴマを磨る一方で、「そこへ行けば、中国はソヴェートの先例にしたがって行けばいいので、はるかに楽な立場にあると言えよう」と。まさに妄言としいかいいようはない。

ここまできたら、後はもう寝言・戯言・世迷い言の炸裂である。

「赤を国民色の中へ融け込ませしたように、中国は社会主義を自然に、無理なく、時刻に融けこましているようである」。そんな「中国へ来て、多くの人々と握手している間に、不思議な感触を覚えた」。「ロシア人と握手して、熊のような手でつかまれると、痛いような、懐かしいような気がしたものだが、中国人と握手すると、自分と同様に細い華奢な手が、遠慮深そうに握り返して来る」という。

考えてみれば体の大きなロシア人である。熊のような手であっても、何らの不思議はない。一方、米川が握手した「華奢な手」の持ち主である中国人だが、明らかに労働者でも農民でも兵士でもない。労働者・農民・兵士が主人公であることを掲げて建設された国家にノコノコと出かけて行きながら、米川は握手した手から相手の職業・立場を見分けることが出来なかったのだろうか。鈍感の一語に尽きる。さらに米川は「華奢な手」の持ち主の代表として「国慶節前夜の歓迎会で主人役に当っていた周恩来の手」を挙げる。だが、周恩来の「華奢な手」もまた多くの犠牲者の血で染まっていることに気付くべきだろう。周もまた自らの手で、時に部下に厳命して多くの裏切り者や敵を“処分”していたのだ。

毛沢東は「革命とは客をもてなすような、お淑やかで慎ましいものではないことだ」と説いていたが、そのことに常に思い至すべきだろう。革命とは、そういうものだろうに。

米川は女性的な自分の手を「好きでもあれば嫌いでもある」と評した後、「中国の人と同じような手を、互いに握り合っている感じ、それは実に複雑微妙なものである。その時はじめて私は、ロシア人に対する親近感は、要するに書物を通じてのものであって、その同胞感には抽象的なところもある」。だが、「中国人との同胞感こそ直接血につながっている、否応のないものであるとしみじみ感じさせられた」そうだ。

一方は「書物を通じて」、残る一方は「直接血につながって」いるとはいうものの、他民族に「同胞感」を抱くという神経が皆目判らない。だが当時は、それが進歩的知識人一般の共通認識だったということだ。であればこそ、日本人でありながら、「我が祖国ソヴィエト社会主義共和国連邦!」などと臆面もなく大言壮語できたのだろう。恥を知れ、恥を。

「中国は毛沢東の解放後、いくつかの大きな治水工事を完成したが」、その一つである北京郊外の永定河ダムの「国家的な意義を有する」治水工事現場を見学し、古代の卓越した古代の土木技術に大感激し、思わず「いわゆる『眠れる獅子』が目をさました今日では、それが新しい力となって、いたるところに働くことであろう」と大絶賛してみせた。

どうやら米川の中国認識もまた、「書物を通じて」のものでしかなかった。だが以後の、日本における毛沢東革命への幻想を考えると、その宣伝効果は抜群だったようだ。《QED》