【知道中国 1058回】                       一四・四・初一

――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野1)

「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)

 

満州事変が勃発した昭和6(1931)年に日本共産党に入党したが、3年後には転向。敗戦後に再入党し、参議院議員(1947~50年)を務めてもいる。昭和39(1964)年に政治理論で党中枢と対立し除名された中野重治(明治35=1902年~昭和54=1979年)は、第二次中国訪問日本文学代表団の一員として、「生まれたはじめて飛行機に乗」って訪中した。昭和32(1957)年秋のこと。中島健蔵の訪中と同じ時期だ。同行者は日本文芸協会所属の井上靖、多田裕計、十返肇、堀田善衛、本多秋五、山本健吉である。

 

一行の主たる目的は、中島が「点描・新しい中国」で言及しているように、日本文芸家協会と中国作家協会との間で公表される共同声明の案文作りと、それへの署名だった。

 

香港側の「イギリス人とイギリス側に雇われた中国人駅員とでこさえている一種のきわめて手軽な関門」を過ぎると、「つい向こうに、ほんものの中華人民共和国が見えている。土地として、現物としてそれが見えている。丘がある。晴れた空の下にそれらが連なって伏せている。草が生えている。旗が立っている」と、「ほんものの中華人民共和国」を目にして感激する様が滑稽でもある。じつは「ほんものの中華人民共和国」では、この時、反右派闘争という苛烈な知識人潰しが行われていたことに思いを致すわけでもない。

 

中野は、「ほんものの中華人民共和国」における反右派闘争の凄まじさをノー天気にも、余りにも軽く見過ぎていたとしかいいようはない。だが、ともかくも彼の「中国の旅」を追体験することで、当時の進歩的文化人・革新系知識人のデタラメさと中国側の対日工作に幻惑・籠絡され、中国側の宣伝道具に変化してゆく姿を改めて振り返ってみたい。

 

ならば、彼らが当時の日中関係をどう捉えていたのかを、中野の記述から拾っておきたい。中野は「去年夏の周恩来の言葉」を引用しながら、当時の日中関係について概略次のように整理している。

 

■「吉田内閣は中国を敵視していた。鳩山内閣と石橋内閣とは中国と仲よくしようとする希望を持っていた。ところが、岸内閣は前進するよりももう後退している」

 

■「アジア諸国はみなバンドン会議の一員だから、岸首相がアジア諸国を訪問したのはよい。また日本の首相が当分のあいだ中国にこられない事情もわかる。しかし岸首相がわざわざ、鳩山も石橋も、そして吉田さえ行かなかった台湾に行き、中国人民の反感を買っていることは私(注:周恩来)のとくに遺憾とするところである」

 

■「(台湾で)岸首相は、『もし蔣介石政権が大陸反攻を実行できれば私にとってまことにけっこうなことだ』といっている。これは中国人民を敵視している言葉である」

 

■「岸首相がインドを訪問したとき、新聞記者に『日本は中国を承認しない。なぜなら中国は侵略国家であるからだ』と語ったことがある。インドは中国を承認し、中国の国連加盟を支持している。そのインドに対してこのようなことをいうのは挑発的態度としか思えない」

 

■「私(注:周恩来)は東南アジアのやっつの国を回ったが、日本の悪口なんかは少しも行ってない。毛沢東主席も、日本をふくめたアジア諸国と仲よくしたいと希望している」

 

■「日本の首相が外国に行って、中国をののしる必要がどこにあるのか」

 

以上は「アジアをまわってアメリカへ行ったときの日本の岸の言動について」語った周恩来の発言ということだが、かくも丁寧に記しているところからして、岸首相こそが日中関係にとって最大の障害だという周恩来に考えに、中野も同調しているということだろう。

 

それにしても、日本の首相が「中国は侵略国家」とズバリ。現在では到底ありえないことだ。靖国も尖閣も問題視される遥か昔は、存外にマトモな時代だったことになる。《QED》