【知道中国 945】                        一三・八・初二

――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の1)

「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

戦前には西田哲学学徒として名を馳せていたはずの柳田謙十郎(明治26=1893年~昭和58=1983年)は、昭和25(1950)年、西田哲学からマルクス主義唯物論に転じたことを明らかにした。この“変節”の背後に、いったい何があったのかは不明だが、それから4年を経た 昭和29(1954)年12月、『我が真実への旅』(青木書店)を出版する。

そこには、「わたしにとっては生まれてはじめての場所である」北京における、奇妙奇天烈極まりない言動が記されていた。読み始めはムカムカと腹が立ってくるが、読み進むほどに抱腹絶倒。腹の皮が捩れるというのは、こういうことなのかと思わせてくれるほどのトンデモ行状記だ。よくぞまあ恥ずかし気もなく『我が真実への旅』などという書名を掲げたものだと感心する。マルクス主義唯物論哲学者とは、かくも図々しく、かくも厚顔で、かくも怖いものなしのマヌケなのか。素直に敬服・脱帽だ。嗚呼、処置なし。

これから柳田による口から出任せの寝言・戯言・世迷いごとの類を追いかけることにするが、戦前に杭州や蘇州、さらに満州を旅した小林秀雄の“眼差し”を思い出し、あるいは比較しながら拙稿に目を通しても戴けるなら幸甚。マルクス主義唯物論者という人種のデタラメさ、招待外交の巧妙さが、改めて判然としてくるだろう。

昭和29年の7月25日、北京市街巡りから、柳田「我が真実への旅」を始めた。

「三時三十分市内見学に出かける。・・・解散、自由行動となったので」、「北海公園をたずねる。水があり、森があり、美しい東洋風の建築があり、その中心には高いところに白塔がそびえ立っている。いかにも北京らしい情緒豊かなところである。有料公園になっているが押すな押すなの雑沓である」。その雑沓を掻き分け、柳田は白塔に登り、「北京は森と水の都である」と、賛嘆の声をあげる。まったく呑気なものである。

「紫禁城が黄に紫にいらかをならべているすがたはまさに天下の壮観である。ヨーロッパの都市美もわるくないが、この美しさは格別である」。かくて「みんなで『いいなア、いいなア』の連発、何ともほかに形容のことばもない」ときた。

「いいなア、いいなア」を連発した「なかま」というのは、おそらく柳田と連れ立って一帯をほっつき歩いている日本からの一団だろう。であれば雑沓に紛れ、彼らの周囲を共産党関係者、便衣の公安がそれとなく囲み、警護という名目で厳重に監視していたはずだ。だが、有頂天の柳田の眼には、そんな情況が判るわけはない。いや判っていたとして、そんなことは書けないだろう。なにせ、中国側からの“アゴ足付き豪華招待旅行”を愉しませてもらっているゴ身分なのだから。

「いいなア、いいなア」の連発とはいうが、いったい何が「いいなア」なのか。素直に読めば、白塔から眺めた紫禁城や北京の街並みが「いいなア」なのだろう。だが、それら全ては、共産党政権が否定した封建王朝の清朝が遺していったものだ。彼らの論理に立てば、否定すべき封建王朝が人民の富を搾り取り、その労力を酷使して造った建造物であり街並みである。ならば紫禁城も、ましてや北京も否定されてしかるべき存在であるはずなのに、「みんなで『いいなア、いいなア』の連発、何ともほかに形容のことばもない」というのだから、無邪気といえば聞えはいいが、全く開いた口が塞がらない。

だが、これはほんの序の口だった。この日の夜、平和委員会で映画「ぶどうの熟す時」をみせられ、一気に舞い上がってしまった。豚も煽てりゃナントヤラ、である。《QED》