【知道中国 946】                        一三・八・初四

――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の2)

「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

平和委員会で見せられた映画「ぶどうの熟す時」は、「あまり新しい映画ではない」らしいが、「新中国農村の人たちの過渡期における苦悩とその人間改造が実によく描き出してある」と、柳田は自らの感動を記す。

ここでいう「過渡期」とは、農民が地主に虐げられ暮らしていた国民党の時代から、共産党の指導によって自らの立場に目覚め、ついには地主を打倒(殺)し、地主から取り上げた農地を分配し、新しい社会主義社会を迎えるまでの期間を総称して指すに違いない。「人間改造」を中国語では「翻身」と表現し、地主から牛や馬のように扱われることに何の疑問も持たなかった農民が、自らが社会の主人公であるとの自覚を持ち、社会主義的な人間として文字通り身も心も生まれ変わることをいう。

「ぶどうの熟す時」という映画を見たわけではないし、ましてやストーリーも知らない。だが、それが共産党によるプロパガンダ映画であることぐらいは判る。共産党は映画、芝居、漫才、流行歌や民謡などの大衆芸能、いまでいうポップ・カルチャーを思う存分に駆使して、自らの政治的主張を圧倒的多数の文盲の人民に刷り込むことに努めてきた。であればこそ、共産党にとって文化活動は形を変えた政治活動であり、革命活動そのものであり、政治的プロパガンダ以外のなにものでもなかったのだ。

であればこそ「ぶどうの熟す時」にしても、暗黒の封建社会の一隅に共産党の指導という一筋の明るい光が射し、やがて封建社会は崩壊し地主は消え去り、労働者・農民・兵士による労働者・農民・兵士のための新民主主義が行われる社会となり、かくて明るく豊かで平和な働く者にとっての地上の楽園が生まれる――この程度の身勝手極まりない共産党的予定調和物語に溢れた埒もない映画であることくらいは、見なくても判る。

そんな映画を見せられた柳田の口をついた感想が、「こういうものは日本にもってきてもミイ氏ハア氏にうけ入れられにくいかもしれないが、そこに日本の救いがたき立ちおくれがある」というのだから、呆れ返るやら驚くやら。

だいたい柳田自身がマルクス主義唯物論哲学者を自任するなら、「救いがたき立ちおくれ」た情況にある日本を哲学的に解剖し、変革する使命を自らに課してしかるべきであろう。にもかかわらず「救いがたき立ちおくれ」などと日本をまるで“他人事”のように突き放しただけでは事足りないのか、その「救いがたき立ちおくれ」た日本で日々を生きる日本人を「ミイ氏ハア氏」だなどと小ばかにする始末である。

それがタテマエに過ぎなかったにせよ、柳田のイデオロギーに立てば、「ミイ氏ハア氏」の「人間改造」を手助けし、「日本の救いがたき立ちおくれ」を革命的に改めることに努めなければならないはず。その“使命”すら忘れ、「ミイ氏ハア氏」の捨て台詞とは・・・。

その昔、美濃部という有害都知事がいたが、その有害都知事に通じる柳田の度し難い選民意識、根拠なきエリート主義に腹が立って仕方がないが、じつは、この手の学者センセイの琴線を擽り、煽てあげ、身動きのできないまでに籠絡することは、共産党にとっては赤子の手を捻るより簡単なことだったに違いない。

かくて柳田は、「(映画に挿入されていた)歌もなかなか美しくあとまでわすれがたい印象をのこす。いままで中国の音楽は耳なれない金属性の音ばかり気になって不快の感をおぼえたことがあるが、こうしてみるとさすがにいい。レコードがほしくなる」と綴る。

レコードにまでヨイショ、である。翌日からはヨイショはさらにさらに炸裂する。《QED》