【知道中国 947】 一三・八・初六
――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の3)
「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
翌日の7月26日には、北京の名勝で知られる万寿山の観光と京劇鑑賞が用意されていた。
そこで柳田は言うに事欠いて、「今日にかぎったことではないのだが、どうも団長を特別扱いされることが心ぐるしい。団長と言っても私などは何の実力も功績もあるわけではない」と。そんなことぐらい、招待する側は最初から十二分に承知している。それゆえに破格の厚遇で対応しているのである。いわば砲艦外交ならぬ幇間外交といったところだ。
「今日もほかの人はバスでゆくというのに団長だけ特別の車を用意してくれる」。そこで柳田は「特別の車」を「ことわってバスにのっていった」そうだが、「かえりにはまた別の車がよういされている」。これが招待外交の要諦だ。こういう柳田のような手合いは、そこまで辞退されるのならと「特別の車を用意」せずにたら、団長の面子が潰れるとブン剥れるに違いない。それが判っているから、わざと「特別な車を用意」する。これこそが、中華数千年の伝統に培われ、裏付けられた共産党式招待外交の“芸術的対応”である。
「万寿山は三方水をめぐらした高台にある建築美の公園で」、「貴重な宝石の細工物でほうまんさせられ」たそうだが、これまた封建王朝そのものの清朝廷室が老百姓(じんみん)を搾取して築き上げた栄耀栄華の残滓ではなかろうか。
そんな万寿山で柳田は「ひるめしのご馳走になってから舟あそび」をしたそうだが、感極まって、思わず「昔の宮廷貴族にでもなったような感じである」と漏らした。ほんとうに「昔の宮廷貴族にでもなったよう」な気がしたのだろう。だが次の瞬間、自らの発言が不用意であることに気付いたのか、咄嗟に「昔の王侯貴族のぜいたくさには全くただあきれるほかないが、今は人民のレクリエーションの場として用いられているから罪はない。中国ならでは見ることはできない豪華な風景である」と軌道修正してみせる。
柳田にいわれるまでもなく「王侯貴族のぜいたく」のために建設されようが、万寿山には罪はない。当たり前すぎるほどに当たり前の話だろう。だいいち「王侯貴族のぜいたく」のために供された凡てに罪があるなら、中国のみならずどこの国であれ歴史的建造物、文化財、古典芸能などの大半に罪があることになってしまうだろう。
毛沢東が北京で住んだのは清朝盛時の乾隆帝(在位は1735年~95年)の“御世”に機能を重視して造営された宮殿であり、共産党最高幹部の邸宅は清朝歴代皇帝一族が憩うために紫禁城西隣に造営された人工湖である中南海の周辺に配された数多の御殿だった。
塀で囲まれた毛沢東の邸宅の南側には、乾隆帝親筆で「豊沢園」と書された扁額が掛った主門がある。なぜ南に向かって門が開かれているのか。古来、君主は南面し臣下は北面するもの。であればこそ、天安門も南面しているのだ。毛沢東は皇帝である。だから南に向かって立つ毛沢東に対し、臣下は北向きに位置しなければならない。周恩来といい劉少奇といえども、毛沢東の前では臣下にすぎない。ならば彼らも「豊沢園」との扁額に目をやりながら門を潜り北に向かって歩を進め、粛々と毛沢東に伺候したに違いない。
門を入ると24時間体制の警護官が控える衛所があり、その先が広大な中庭。直進すると「頤年堂」。59年に人民大会堂が完成するまで毛沢東が取り仕切る党や政府の重要な会議が開かれ、時に外国の賓客を招いての宴席が行われていたというから、その広大さが想像できようというもの。その後ろに毛沢東が集めた膨大な書籍を収める書庫の「合和堂」。毛沢東が住んだ「菊香書屋」(別名を松柏書屋)には屋根つきの回廊があった――これが毛沢東の住まいの極々一部である。確かに「中国ならでは見ることはできない豪華な風景」だが、
「王侯貴族」を遥かに凌ぐ毛沢東以下共産党最高幹部の生活を、柳田はどう感じたのか。
「ミイ氏ハア氏」ぶりを発揮し、「『いいなア、いいなア』の連発」・・・だろうな。《QED》