【知道中国 948】                        一三・八・初八

――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の4)

「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

夜は京劇を鑑賞が用意されていた。同席したのが、中村翫右衛門である。

前進座創設者の1人である中村は戦後、座員共々日本共産党に入党したことで「要注意人物」として公安の監視下に置かれ、昭和27(1952)年には公演先の北海道赤平町で傷害・器物派損事件(赤平事件)を起こし、北京に亡命中だった。3年後の昭和30年(1955)年、国慶節に歌舞伎を演ずるべく訪中した二代目市川猿之助と共に帰国。当時は「凱旋帰国」と報じられている。

犯罪容疑者の帰国を「凱旋」として迎える”空気“が当時はあったということだろうが、日本共産党の内部対立で敗れた徳田球一や伊藤律なども北京に亡命しているから、中国共産党が彼ら亡命者を使って対日工作を画策していたということだろう。おそらく、そんな対日工作の一環だと思うが、昭和27(1952)年、中国共産党は北京での「アジア太平洋平和会議」の開催を呼びかける。親中派の大山郁夫(戦前の労農党委員長)、部落解放同盟を率いる松本治一郎、アナキストの神近市子らが参加を表明した。だが外務省が旅券発給を拒否したことで(当時の外務省にはチャイナ・スクールなどという媚中・親中勢力はなかったわけだ)、彼らは訪中不可能となり、代わりに北京に居た数人の日本人が参加している。その際、中村は松本の代理として登場。この段階で、中村の中国亡命が明らかとなった。

徳田、伊藤の亡命はいわずもがなだが、中村の亡命、猿之助の国慶節祝賀のための北京公演、さらには昭和31(1956)年の梅蘭芳による京劇日本公演といい、昭和30(1955)年――自民党と社会党による「55年体制」が確立した前後に、民間文化人・芸能人を使っての対日文化工作が本格始動したようにも思える。形を変えた“日中友好ムード”の演出だろう。米川や柳田の訪中は、その一環に違いない。以後も、文化人の訪中は続く。いわば中国共産党の掌の上で転げ廻される彼らの“行状“は、見るも無惨なまでに滑稽である。

当時の中国を見ておくと、53年7月に朝鮮戦争が終結し、12月には農業の社会主義化方針が決定する。翌54年には共産党最高幹部である高崗と饒漱石が「反党同盟」を結成したとの嫌疑により失脚し、55年の年末時点で全国の98%の合作化が達成されるなど、毛沢東の独裁化が明確になった。どうやら政治面での毛沢東支配の確立化が、一方で対日工作の本格始動につながっているように思える。

柳田の行状記に戻るが、中村と同席して京劇を観劇した彼は、先ずは「世話物だがお染久松の北京版ともいうべく、なかなか味がある」舞台を見て、「自分が年よりであることもわすれてしまってすっかりとほれぼれした気持ちにな」った末に、「映画のエロ物などはもう見る気もしないが、これならほんとうにたのしめる」と無邪気な感想を記した。

「映画のエロ物」などという表現が“あの時代の雰囲気”を浮かび上がらせて一種微笑ましくも感じる。柳田は呑気に「北京版」の「お染久松」を愉しんだ心算だろうが、彼らが見せられた舞台では、じつは計算され尽くした演目が上演されていたのだ。

じつは当時も、共産党は京劇を使っての民衆工作に腐心し、政治的プロパガンダにおいて最も有効な手段として京劇を位置づけていた。厳格な基準を定め、役者に徹底した社会主義教育を施し、古くから民衆が好む演目の筋を改編し、残酷な封建社会、万人平等で素晴らしい社会主義社会、絶対的に正しい共産党などといったイデオロギーを人民の脳髄に刷り込んでいた。いわば京劇公演とは、高度な政治工作以外のなにものでもなかった。

そのことに柳田は気づいていたのか。気づかなかったのか。気づこうとしなかったのか。そんな京劇公演に「ほれぼれした気持ちにな」ったとは・・・いい気なものデス。《QED》