2996“もう一つの中国”への旅(旅236)

【知道中国 2996回】                      二六・四・念八

  ――“もう一つの中国”への旅(旅236)

じつは、この時期のマンダレーは雨が多い。市街地すら道路事情が劣悪。ならばマンダレーを一歩離れた先の状況は想像するまでもないだろう。不完全な舗装に加え、中国との交易品を運送する大型トレーラーがひっきりなしに行き交っている幹線道路を走るわけだから、快適なドライブが望むべくもない。ラシオ(臘戌)まではマンダレーから東北方向に直線で300キロだが、「石灰岩の広大な台地」の上をクネクネと曲がりくねった泥濘の道路が延々と続く。最短でも12時間は覚悟しなければならない。道路事情が悪すぎる。そのうえ車はオンボロだ。やはりシンドイことは避けるべし。次の機会を待つことに。

だが、その機会は意外に早くやってきた。半年ほどが過ぎた2005年3月である。一帯は折良く乾期だった。さっそく、半年前に世話になったザウ(ザウ・ウィン)さんに運転手兼通訳をお願いしてマンダレーのホテルを発った。

郊外に出て先ず目に付いたのが市内ではついぞ見掛けることのなかったケバケバしいデザインの新築のタウンハウスや4、5階建てマンションの建ち並ぶ高級住宅地だった。もちろん住人は中国からの新来者やら中国との国境交易で俄に潤いだしたマンダレーの華人たち。ザウさんの話では、郊外を含めマンダレー圏の人口は100万人ほどだが、8割方は華僑・華人に新規参入の中国人、とか。どうやらマンダレーではビルマ人は少数派らしい。

最初に小休止した街はピンワール。旧名はメーミョーで、漢字では眉苗と綴る。小さな集落や畑のなかをクネクネと曲がるほこりっぽい道路をマンダレーから東方へ70㎞ほど。石灰岩の台地を1000mほど上ると、そこがメーミョーの街だった。

ザウさんが最初に連れて行ってくれたのが旧日本軍の第15軍司令部跡。

昭和18年3月末、大本営はビルマ方面における軍政施策強化を狙って軍編成の大幅更改に踏み切る。河辺正三中将(支那派遣軍総参謀長)が司令官を務めるビルマ方面軍の隷下に牟田口廉也中将を司令官とする第15軍を配す。第15軍は第18(菊)師団、第31(烈)師団、第33(弓)師団、第56(龍)師団の4個師団で構成されていた。

恰も敗戦の2年前に当たる昭和18年8月15日、第18師団の田中新一師団長は師団司令部を北部の要衝であるミートキーナ(密支那)に前進させる。彼らを待っていたのは現地カチン語で「死」を意味するフーコン谷地での勝算薄き戦闘だった。結果は壊走に次ぐ壊走。惨澹たる敗北で、死屍累々たる屍の山。

これから目指すラシオ方面を守備していたのは、予備兵力として配されていた中西徳太郎大尉率いる第三大隊だった。ということは、第三大隊の兵士も、これから辿ることになる曲がりくねった街道を、ラシオに向けて進軍していったに違いない。

15軍司令部跡に戻るが、周囲が高い塀で囲われていて中に入ることは出来ない。壊れかけた塀のすき間から覗くと、長い間、雨風に曝されたままで鼠色に薄汚れ、壊れかけた四角張った3階建ての建物が目の前に。想像するに第15軍司令部が“現役”だった当時は真っ白な壁が明るく光り輝き、周囲を睥睨するように建っていたことだろう。

ザウさんの後について第15軍司令部跡の裏側に通ずる小道を暫く進むと、畑の脇に10cm角で高さ2mほどの手作りの墓標が建っていた。「昭和二十二年二月 建之」「池田光夫」と微かに読み取れた。昭和22年2月は池田さんを弔った日なのか。それとも日本への帰還を前に、戦友が異国の地に眠る池田さんに別れを告げた日だったろうか。

日本からの戦友慰問団の案内もするザウさんの話では、空港で出迎えた時の一行は例外なくヨボヨボ。これで慰問旅行は完遂できるのかと心配になるが、これまた翌朝ホテルに出迎え行くと全員が別人のよう。覇気に満ちた顔つきで背筋はシャキッと伸びて、晴れやかな顔立ち。「共に戦い、異国の土となった戦友へ思いは熱いのでしょうね」と。《QED》