3009“もう一つの中国”への旅(旅249)

【知道中国 3009回】                       二六・五・念五

  ――“もう一つの中国”への旅(旅249)

彼女は緬共の処刑方法の幾つか――共産主義革命の大義が定めた鉄の掟か。それとも民族の歴史がもたらす残忍さか――を書き留めている。どれもが目を背けたくなるほどだ。

たとえば、手に太い棍棒を持った屈強な男が死刑囚の後頭部を叩き頭蓋骨を打ち砕く。脳漿が飛び散る。地面に倒れた体を、4、5人が棍棒でグシャグシャにしてしまう。別の方法は死刑囚に大きな穴を掘らせ、作業が終わったところで、隣に立った屈強な男が手にした鋭利な刀が一閃。首と胴体が離れ血潮が四囲に吹き飛んで処刑は終わる。それもこれも、貴重な弾丸をムダ使いしたくないためと説明されている。

ここから思い至るのがカンボジアのポル・ポト軍による凄惨・残虐の極としか形容しようのない処刑方法であり、古くは延安で毛沢東の懐刀として奸計を弄び尽くした康生による政敵潰しを目的とした“費用対効果バツグン”の極刑である。

前後の文脈から判断して1969年の頃と思えるが、人民解放軍から派遣されていた緬共軍事顧問からラシオ攻撃の命令が下る。ラシオが陥落すれば、ビルマ東北部は一気に緬共(つまり後ろ盾の中国共産党)の掌中に。ラシオを拠点に西や南に押し出せば、ビルマ全土の制圧に一歩近づく。昔も今も将来も、さほどまでにラシオの戦略的価値は高い。

現地の事情に通じた緬共幹部は反対する。だが、相手が相手だけに反対意見を具申するわけにはいかない。なにせ武器弾薬から幹部の妻に至るまでの一切合財を、緬共は中国共産党から授けられていた。まさにオンブに抱っこ。北京なければ緬共ナシ、であった。

予想通りラシオ攻撃は大失敗。命からがら戦線を離脱し、2年ほどの逃避行の末に原隊復帰を果たす。その間、楊美紅は中国から脱出しビルマ山中に住む同胞に助けられる。彼女を助けたのは、あるいは文革から逃れ山中に隠れ住んでいた元紅衛兵ではなかったか。

鄧小平が奇跡の復活を遂げ、毛沢東路線を全否定したような対外開放路線を歩みだした頃、彼女は幹部として緬共訪中団に加わって北京へ。

そこで待っていたのは「1985年1月1日を期し一切の援助停止。それまでの5年間で自力更生への道を探れ。革命は自国民のみでおこなうべし」との中国共産党からの決別宣言だった。かくて緬共は否応なく瓦解の道へ。共産主義の大義と大上段に振りかぶったところで、やはり自国の国益の前では雲散霧消してしまうようだ。背に腹は代えられない。

緬共は息の根を止められた。幹部の多くは激しく動揺し浮き足立ち、“革命の大義”をかなぐり捨て、生き残りの道を探る。なかには手っ取り早くアヘン販売に手を染める者も。

ビルマのジャングルから抜け出て雲南に戻り、故郷で家庭を持ち穏やかな生活を送る彼女は、ある日、街で乞食に身をやつした元緬共最高幹部に出会う。彼は顔を苦痛に歪めながら彼女から渡された現金を押し戴き、人混みの中に消えていった。

じつは「紅い財閥」の代表格とでもいうべき林明賢や石磊と同じように雲南の辺境に下放された若者の1人に、1980年代以降『大閲兵』『黄色い大地』『子供達の王様』『覇王別姫 さらば我が愛』と次々に意欲的映画作品を世に問うた映画監督の陳凱歌がいる。陳は自らの文革時代を回顧した『私の自衛兵時代 ある映画監督の青春』(講談社現代新書、1990年)で、雲南への旅立ちをこう記している。

「一九六九年の春、私は家を出て、遠くに出かけることになった。出発の時、北京に残る友人が地図を開いて、いつまでも指でたどっていた。やっとこちらを向くと、帽子のひさしをぐいと下に引いた。『おい、ここも中国なのか?』。

そこは一面の緑の山々で、雲南省にあった。雲南は中国の西南にあり、そのでこぼこした緑の野も、雲南の西南にある。ラオスやビルマの人々が、群れからはぐれた牛を探しによくやって来た。だが、国境の標識から北京までは五千キロもあった」《QED》