2992“もう一つの中国”への旅(旅232)

【知道中国 2992回】二六・四・仲九

  ――“もう一つの中国”への旅(旅232)

雲南会館の広大な敷地内には会員のための冠婚葬祭用の数棟の建物に加え、図書館も配置され、その上に中国語補修教室も備えられていた。市街には台湾の教科書を使った補修学校が1校あるというから、なにやらミャンマーの内陸部のマンダレーでも中台両岸の微妙な関係が日常化していた、ということか。とはいえ現在の「台湾有事」のような緊張関係はみられない。いわば互いに干渉せず、といった雰囲気ではなかったか。

会館は理事長、総裁、副理事長、秘書長、監事長など4年1期で選ばれる幹部によって運営され、その下に財政・会計・互助・総務・管理・墓園・慈善・文化娯楽・僑育・仏教・交際・福利などの各班が置かれていた。こういった組織形態は“もう一つの中国”においては共通している。

同会館の前身は200年ほどの昔に組織された阿瓦騰越会館で、100年ほど前に瓦城雲南会館となり、1949年の共産党政権成立を機に現在の雲南会館(正式名称は瓦城雲南同郷会)に改められている。 

ところで騰越(現在は騰冲)といえば日中戦争最激戦の地の1つであり、郊外にはミャンマーへの出稼ぎ組がルビーのビジネスで一攫千金の夢を実現させて故郷に築きあげた豊かな和順村がある。出稼ぎの夢である衣錦還郷(故郷に錦を飾る)を実現させたわけだ。ということは、マンダレーという街が和順村の生みの親ということか。

ここで改めて思い出されるのが、和順村に近い名刹・来鳳寺境内で見掛けた1.5m×1mほどの「旅緬華僑于公元一九八九/一九九零年捐贈騰冲來鳳寺玉佛流芳碑」と刻まれた石碑だった。碑文には「瓦城名商張建華」「瓦城一位穏名華僑」「仰光雲南同郷会副会長」など多くの篤志家が、「愛国愛郷愛教」の志に従って同寺にミャンマー産玉製の仏像や義援金を送ったと記されていた。

この碑文からは「瓦城名商張建華」「瓦城一位穏名華僑」が先達となり、仰光(ヤンゴン)などミャンマー各地の「愛国愛郷愛教」の華僑・華人に呼び掛けた、と読める。彼らが衣錦還郷の夢を実現させたのは「公元一九八九/一九九零年」、つまり天安門事件とその後遺症で鄧小平率いる共産党政権が苦境に陥っていた時期である。ということは、中国の心臓部が混乱の渦中にあろうが、西南辺境の仏教寺院を舞台に演じられていたマンダレーの華人有力企業家や匿名の篤志家による「愛国愛郷愛教」の行為は“淡々粛々”と行なわれていたことになる。

おそらく「愛国愛郷愛教」はまさしく衣錦還郷に通じるはずであり、「愛教」はともかくとして、イデオロギー抜きであればこそ、彼らの「愛国愛郷」は共産党政権にとってもなんの不都合もない。いや、むしろ歓迎すべきことであるはずだ。やはり来鳳寺の玉の仏像は、マンダレーが中国世界の一角を形作っていることを問わず語りに語っている。いや、そうに違いない。

雲南会館の職員の説明に拠れば、マンダレーで活動している和順村関係の集まりには軍事独裁下の1999年3月に成立した曼徳勒旅緬和順聯誼会、和順村に60数年前に設立された益群中学校の同窓生で組織する旅緬益群校友会もあるが、同中学校卒業生はミャンマー各地に多いが、世界中で認められる。他に、雲南会館の下部組織として曼徳勒雲南青年聯合会も活動している、とのこと。

次に向かったのは、雲南会館職員から紹介してもらった瓦城福建同郷会だが、その途中の大通りのそこここで華字のカンバンを多く見掛けた。そこで道草を。

最初に簡体字カンバンを掲げた間口3mで奥行き4mほどの通新書店を覗く。書棚には台湾や香港、それに中国の書籍。商売の主力は貸本とは、店主の弁だった。《QED》