【知道中国 1059回】                       一四・四・初三

――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野2)

「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)

 

中野は「去年夏の周恩来の言葉」に全面的な信を置き、「岸などが妄動」と自国の首相の言動を全面的に退けた上で「問題は無限というほどにある」と記した。では「無限というほどにある」と中野が考える日中問題を、どのような方法で解決しようとしたのか。

 

解決法の1つが、1957年11月10日の北京で日本文芸家協会と中国作家協会との間で発表された共同声明の厳格な履行ということだろう。中野は共同声明を、次のように考えた。

 

共同声明の「吾々日本中国両国の文学者は、第二次日本文学代表団の訪華を機に、相会して歓談し、両国文化の諸問題について意見を交換することを得たことを深く喜ぶ」とある部分に対し、「つまりわれわれは、このことを『深く喜』んでいるのだ」。続く、「日本中国両国の文化は、その長い歴史を振り返るまでもなく、互いに密接な関係によって今日の地の開花を見たものであって、現下の特殊な政治情勢は、その交流の必要を一層吾々に痛感せしむるものである」との文言には、「つまりわれわれは、岸などが妄動しているだけに、政治との相対的関係からも一そうそのことを『痛感』しているのだった」とする。

 

さらに「吾々両国の文学者は、両国文化の将来のために、文学者および文学作品の交流をより一層活発ならしめることの必要なことに完全な意見の一致を見、それが実現のため、あらゆる努力を惜しまないことを期するものである」との条項には、「『努力を惜しまないことを』われわれは『期』しているのだから、共同声明以後われわれはこれを実行することになっているのだった。われわれはそれを公に約束したのであって、公の約束は当然われわれを拘束する」と綴る。

 

なにやら回りくどい表現で、なにを言いたいのかは判ったようで判らない。隔靴掻痒の極みだが、どうやら中野ら日本文芸家協会と中国作家協会の間では、日中友好という目的のためには、一切の疑問や不都合は不問にしてしまおう、ということのようだ。有体にいうなら臭いものには蓋、である。

 

中野らが帰国した後、当時の中国で胡風や丁玲などという第一線の作家が反社会主義傾向ありと強く批判されていた問題について、日本共産党系文芸雑誌『新日本文学』の誌上で訪中メンバーである本多を標的に厳しい批判があった。つまり、わざわざ北京くんだりまで出かけて行ったのだから、中国作家協会の幹部連中に胡風や丁玲の問題の真相を正面から問い質すべきだった。それを、中国側が説明するがままに受け入れ、しかもオメオメと帰国するとは何事だ。子供の使いでもあるまいに――というのだ。

 

当時の『新日本文学』をひっくり返して論争の仔細を検討すればいいのだろうが、そんなことをしている暇もない。中野がダラダラと書き連ねていいたかったことは、日中友好のためには相手が嫌がることは止めようじゃないか、ということに尽きている。そんな立場から、中野は同行した山本健吉の帰国後の発言を俎上に載せて食って掛かった。

 

中国で出くわした青一色の服装について、山本が「『目立つ着物を着ていると、生活的に右派分子だといって、たたかれる恐れがある。』と書くのには異議がある」という。それというのも「私の考えでは、そんな恐れは毛頭ない。これは事実としてない。それを『ある』と書くのは、いらぬ嫌悪感、いらぬ恐怖心を、わざと日本人読者にあたえることになるだろう」というのだ。かくて中野は「反右派闘争というのもそんなものではない。こう私がいいたくなる」と興奮気味に綴っている。だが反右派闘争の壮絶・残虐・残忍・卑劣・残酷さを知れば、それを伝えなかった中野の罪は極めて重いといわざるをえない。

 

もっとも、当時は中国共産党と蜜月関係にあった日本共産党に属していた中野には、反右派闘争の真実を日本の読者に知らせることなどできるわけもなかったろう・・・が。《QED》