【知道中国 953】                         一三・八・仲八

     ――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の9)

       「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

さぞや会場が割れんばかりの拍手が起こったことだろう。「この会が終わると、中国和平委員会副主席廖承志さん」が「多くの人をかきわけ」てやって来て、「大きく太く厚い両手」で、柳田の「手をかたくにぎりしめてくださった」。柳田も廖も無言だったが、「何かひとこと『柳田さん、ありがとう』というような低い、しかし力のこもった声がきこえたように思ったが、ゴタゴタとしている中でハッキリとはわからない。だが心は通じた。私の誠意は少なくともこの人だけには通じたと感ぜざるを得なかった」と、柳田は大感激である。

孫文の秘書として働いた国民党左派の代表格とも言える廖仲凱を父に、国民党左派の女性指導者の何香凝を母に、東京で生まれ東京で育った廖承志は、早稲田大学第一高等学校に学ぶ。共産党内では知日派の代表であり、建国以降は一貫して対日工作を取り仕切っていた。であればこそ、廖が柳田を楽屋から操っていたと考えて間違いない。ならば廖にすれば、狙い通りに演じた柳田の手を握って「よくやったね」といったとこだろう。

会場からの拍手に逆上せ上がってしまったのだろう。柳田は日本人――柳田の用法に従うなら「ミイ氏ハア氏」ということになるはず――に批判の矛先を向ける。

「日本では人間の誠意がそのまま通ずるというということは、むしろまれなことである。今の日本人は『金』の前にはいくらでも動かされる。権力の前には無条件で頭をさげる。また地位の高い人の前に出るとわけもなく有りがたがる。けれども誠意に対しては意外に無関心である。万事が金の世の中というものはそういうものなのであろう」と記した後、いうに事欠いて「新中国の人たちは金では動かない」と言い切った。

「新中国の人たちは金では動かない」という件を目にした時、思わずブッ飛んでしまった。おいおい正気かいと、柳田の神経を疑わざるを得ない。柳田というゴ仁は、本当に哲学者なのだろうか。「地位も権力も金もない一介の野人」などと自らを謙遜気味に語っているが、じつは哲学者を僭称している、単なる俗人ではないか。「新中国の人たちは金では動かない」などというマトモな大人なら口に出しても恥ずかしい限りの台詞は、怪しげな新興宗教が信者勧誘の際に使う常套句のようなものであり、柳田が揶揄する日本の「ミイ氏ハア氏」であったとしても、口にすることはないだろう。

にもかかわらず柳田は、何の臆面もなく「今の日本人は『金』の前にはいくらでも動かされる」と口にし、「新中国の人たちは金では動かない」と記す。全く語るに落ちたとは、こういうことを言うのだろう。とんでもないインチキ哲学者だ。

万に一つ、いや億に一つでもいい、柳田の言い分が正しかったとして、それをそっくりそのまま21世紀初頭の現在の中国人に聞かせてやりたい。おいおい、建国当初、「新中国の人たちは金では動かな」かったそうだが、60年程が過ぎると、金でなければ動かなくなってしまったようだな、と。金で動く現在を革命精神の大後退と落胆すべきか。あるいは見事なる先祖還りと看做すべきか。まあ、後者だと思いますがネエ。

翌7月28日午前は新築中の児童病院の見学である。

ベット数600、建坪3万1千坪。「子供のためのこんな大きぼな病院は、日本にはもとより一つもないであろう。日本では共産主義といって目のかたきにしているが、大人も子供も男も女もみんなこんなにも幸福になってくらしているのに一体どこがわるいというのであろう」と。こう真顔で問われても、返答に窮してしまう。柳田の戯言は続く。

「共産主義の悪口をいい、共産主義をおそれている日本国民の方がどれだけ生活が苦しく不安定で不幸でいるかわからないではないか、まことに世の中というものはおかしなものである」と。う~ん、「まことに世の中というものはおかしなものである」なあ。《QED》