【知道中国 954】                         一三・八・二○

     ――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の10)

       「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

柳田は病院の工事現場に足を運び、「病院の建設にやとわれている土はこびをやっている日やとい労働者をつかまえて質問を」した。「五十がらみの人」だそうだが、「その人の給金は一万二千円(日当)」である。夫婦共働きで、上の子供は今年から大学生で、下の子供は中学生。「学費はすべて国家でまかなってくれるから生活には少しも困っていない」。大卒は「五十万円位だというからそれにくらべると日当一万二千円は大分少ない」。日本円換算では「二百円位にあたるから、ニコヨンよりわるい待遇ということになる」が、「男女平等で共かせぎができる上に、生活必需品は極度に安くしてあるので」、「けっこうらくにやって行けるらしい」。たしか日給が240円だったところから、当時の日本では日雇労働者を「ニコヨン」と呼んでいたはず。

ところで柳田は、「五十がらみの人」がヤラセであったとは思わなかったのだろうか。共産党の招待外交における常套手段のヤラセである。心ここに在らざれば見ても見えず、聞いても聞えず、である。それしても柳田は前夜の宴席でのアルコールがまだ残っているのか、恐ろしいばかりの寝言を続ける。

「国家の要人まで新中国建設のためにこの人たちと同じ服装をしてはたらいているのだから何の不自由をもらす理由もない。彼らも心からよろこんで毛沢東政治を謳歌している。今まで苦力としてドレイ労働をやらされた時代に較べれば、天地の相違であるという」と。

「国家の要人まで」が労働者と同じ服装で、同じような給料で働いている。新中国は何と素晴らしいことか。毛沢東以下の要人は率先して「為人民服務」を実践している。これぞ「道徳国家」「道義国家」だと、かつては散々聞かされたものだ。そこで当時は子ども心に流石に毛沢東が指導する中国が凄いと思った。だが、やはり真っ赤なウソだった。

1948年に北京の回族の家庭に生まれた張承志は『紅衛兵の時代』(岩波新書 1992年)で、「小学生の時代から、北京では貧しい家の子どもと豊かな家の子弟との間に深い隔たりがあった。・・・私は彼らに強い反感をもった。下校時になると、校門のところに彼らを迎えに来た自動車が停まっていた――このような子どもの時の階級による区別は、ナイフで刻みこんだように記憶から離れようとはしない」と綴る。

一方、解放軍の機関紙である「解放軍報」の副総編集長を父親に持った唐亜明は半生記ともいえる『ビートルズを知らなかった紅衛兵  中国革命のなかの一家の記録』(岩波書店 1990年)に、「私の通った幼稚園は、解放軍総政治部第一幼稚園だ。解放軍の高級幹部の子女が通うところである。ここの設備は大変立派であった。幼稚園の時から、私たちは一般の人と別待遇になった」と回想する。

「一般の人と別待遇」は上級学校に進むに従って本格化する。1960年に入学した「十一学校」は解放軍の上部組織である党中央軍事委員会が管轄し、軍高級幹部子弟のための小学校であり、「教師は、軍隊の教員や、地方の学校から、選び抜かれた優秀な人たちであ」り、設備は「北京でも最高のレベルのもの」で、「各種の運動場、プール、大講堂・・・・・・、学生はすべて学校に寝泊りする。宿舎もなかなか立派である。毎土曜日、学校のバスで送り迎えしてくれる」だけでなく、病院まで付設されていたというのだから、確かに「一般の人と別待遇」だ。因みに習近平が学んだのは十一学校と同じく解放軍(華北軍区)が管轄していた八一学校。習の父親の方が唐の父親より党内の序列が高かったことから、習の家には警護員、執事、料理人、保母がいた。

柳田が北京で「お酒は飲み放題である」などと有頂天になっていた頃、張は9歳、唐と習は2歳前後。柳田の眼は、いったい何を見ていたんでしょうか。やはり節穴ですね。《QED》