【知道中国 956】 一三・八・念四
――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の12)
「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
柳田は自分が視察した北京近郊の農業合作社で聞かされた説明をそのまま鵜呑みにし、当時の中国で国民の圧倒的多数を占めていた農民が「一九四九年毛沢東首席の力によって」「農奴状態から解放され」、「みんな平等に自作農となった」と思い込み、北京近郊の農村での出来事が中国全土でも起こっているかのように拡大解釈し“吹聴”する。
かくて多くの日本人も、そう思い込んだ、思い込まされた、いや思い込まざるをえなかったというべきだろうか。それというのも毛沢東が国境に沿って目に見えない「竹のカーテン」を設け、完全なる情報統制を布き、自分たちに都合のいい情報しか流さなかったからだ。柳田が日本にもたらしたのは、共産党官製情報でしかなかったということである。
それにしても当時中国を訪問――つまりアゴ足つきのゴ招待に与った柳田をはじめとする進歩派を僭称する多くが、主席と首席とは違うにもかかわらず「毛沢東首席」と記すことが不思議だ。主席も首席も大差なし。その程度の中国認識にすぎなかったのだろう。
それはともかく、かくて日本人の多くは、毛沢東に孔子が説く理想的な聖人君主像を重ね合わせ、毛沢東率いる中華人民共和国を道義国家と看做すという最大級の過ちを犯してしまった。そこに、中嶋嶺雄が力説し警鐘を鳴らし続けた「位負け外交」の原点がある。そうなった要因が柳田一人にあるわけはない。だが、柳田もインチキな中国観を当時の日本に振りまいた旗振り役の一人であることに変わりはないはずだ。罪は重い。
いま戦争責任の有無やら戦争そのものを云々しているのではない。相手の“正体”を如何に捉まえるかの問題を考えているのだ。小林秀雄の口吻に倣うなら、「相手を征服するのに相手を真に理解し尽くすという武器より強い武器はない」ということになるだろう。つまり「位負け」しないためには、如何にして「相手を真に理解し尽くす」か。この一点に帰着するように思える。中国のみならず、韓国、アメリカ・・・すべてそうだ。
そこで試みに「毛沢東首席の力によって」「農奴状態から解放され」、「みんな平等に自作農となった」といわれる土地改革について考えてみたい。
有史以来、巨大な農業社会であり続けた中国にとって、富の源泉である土地を握る地主層が一貫して社会の根幹をなしていた。巨大な中華帝国を緻密に設計された官僚制度が動かしてきたが、官僚は科挙試験によって地主層からしか選ばれなかった。日がな一日農作業に励む農民に超難関試験を突破することは不可能だろう。だいいち農民は字を知らない。知る必要がなかった。圧倒的多数の農民=老百姓(じんみん)は、土地をテコにした地主の下に置かれていた。いわば地主層は、官僚を供給することで中華帝国の支配機構を手中に納める一方で、農民を搾取することで富を収奪し、その富で官僚を輩出してきた。中華帝国の中核は皇帝にあるのではなく、その屋台骨を支えてきた地主層にこそある。
――こう考え、毛沢東は中国社会の根幹を地主と看做した。地主こそ敵だ。敵を殺せ。殺して土地を巻き上げろ。土地を巻き上げてしまえば、天下は共産党のものだ、である。
革命とは貧乏人が立ち上がって地主から土地を奪い返すことだと宣伝し、無頼漢を焚き付けて地主を徹底して痛めつける。毛沢東が土地を与えてくれたと、農民は毛沢東を崇め奉った。かくして地主は「(人民)死刑の判決があってから、すぐに人民の前で執行」され、「みんなはそれを見ている」。「農民たちは『地主千人を殺すことは蟻一匹殺すほどにも思っていない』とうそぶく」のであったと、戦前に四川省の地主の息子に嫁ぎ、現地で土地改革を経験した福地いまが『私は中国の地主だった』(岩波新書 昭和29年)に綴る。
北京の近郊でも多くの地主が「蟻一匹」以下の殺され方をしたことに、果たして柳田は思いを及ぼしたであろうか。「お酒は飲み放題である」・・・柳田は安酒に酔い痴れた。《QED》