【知道中国 2932回】                     二五・十二・初二

  ――“もう一つの中国”への旅(旅174)

インドに送られた新編第一軍軍長で、後に駐印軍副総指揮を務めた鄭洞国は、「私の見たところ、中国にやってきたスティルウェルには米政府を代表して支援物資の運用を監督する一方で、個人的な目論みがあった。『中国通』を自認する彼は中国の将兵と米国からの支援装備を利用し、極東の地に自らを主人公とする英雄的事績を打ちたてようとした。

先ず中国軍の指揮を可能にすることを望み、次いで中国軍将官を米軍将官に交代させ、殖民地式軍隊への編成を目論み、米資本による中国制圧を図り、その代表を狙った」と述懐する。まあ、後になったらなんでも言える、といったところか。

 

また滇西に進出した日本軍をミャンマー東北方面に押し返した遠征軍第十一軍総司令の宋希濂は、中国戦線米軍司令官兼蔣介石付参謀に就いていたスティルウェルと2回だけ話を交わしたと振り返り、1943年春の昆明における会話を苦々しく振り返っている。

「(国民党)政府機関は腐敗無能で行政能力は劣悪だ。インフレは際限なく、人民の生活は痛苦の極みだなどと話した後、私が米軍による兵員と器材の補充は遅きに過ぎると口にするや、彼は直ちに立ち上がって右腕を振りながら中国語で大声を上げ、『ダメだ、ダメに決まってる。腐っている、腐り切っている』と激昂し、事例を示しながら(国民党)軍政部を辛辣に批判した。『米国が中国に供与する大量の物資は、米国納税者のカネなんだ。貴様ら(国民党)軍政部に与えたが最後、正々堂々と掠め取られてしまう。(援助した)薬品や通信器材なんぞは、路上で買える始末ではないか。貴様らの政府はデタラメが過ぎる。ならば、どうして戦場での勝利なんぞが望めよう。ルーズベルト大統領にしても、米国民に何といったら申し開きが立つんだ』と罵った」

 

こう語られるスティルウェルの振舞いを現地日本軍中枢はどう見なし、彼と国民党、共産党、民主派、コミンテルンとの関係をどう捉えていたのか。東京の大本営は対中戦争の全局面における彼の役割をどう分析し、どのような対応を企図していたのか。日中関係は中国の動向だけを凝視していれば事足りるほどに単純ではないことを、改めて歴史が語ってくれている。今回の高市首相発言に対する米中の反応からして、日本を取り囲む内外環境は80年前までと大差なし、と判断するのだが。

 

次に、『鉄血遠征 滇緬会戦』(楊剛・馮傑、武漢大学出版社、 2011年)を紹介する。

 

「序」には、「1942年から45年の間、中日両国は滇緬公路をめぐって鬼神を慟哭せしめるような死闘を繰り広げた。偉大なる戦略的勝利を収めた死戦の全体像を描き出すことに努め、60有余年前の尊い日々を今日の我われに深く感得させ、あの熱帯・瘴癘の密林のなかで死力を尽くし、国家のために我が身を捧げ斃れていった人々を永遠に心に留める」ために出版したと、記されている。

 

台湾の知兵堂出版社版の中国における版権を武漢大学出版社が獲得し、台湾版の繁体字を簡体字に直して出版された。ならば台湾版と同じ内容だろう。どうやら、この本もまた台湾の国民党に対する統一戦線工作の一環ではないか。「日本と戦った昔を思い出そう。今も敵は日本だ。大陸と台湾に分かれようと、同じ中国人じゃないか」とでも言いたげだ。

インド東部に送られマトモな兵士に改造された中国兵はスティルウェル指揮下に置かれ、米軍部隊と共に、時に米軍部隊に前後してミャンマー北部のフーコン谷地に進撃し、一帯に展開する日本軍を打ち破る。密林、豪雨、泥濘、猛禽、疫病、道なき道・・・死の谷での死闘だった。フーコンはミャンマー語で死を意味する。補給の途絶した日本軍は死線を彷徨うばかり。一方、米軍供与の最新装備で編成されているゆえに日本軍から米式重慶軍と呼ばれた中国軍は激戦の末に日本軍を潰走させ、雲南西部を奪還する。制空権を失った日本軍には空からの補給は望むべくもない。もちろん陸路からも皆無であった。《QED》