【知道中国 2930回】                     二五・十一・念八

  ――“もう一つの中国”への旅(旅172)

「中国の反人民的な指導者ではなしに、抑圧されている人民のうちに自己の理想の支柱を見出そうとした」からこそ、スティルウェルは「真の中国の友人として敬愛された」と、「訳者あとがき」には、歯の浮くような“讃辞”が記されている。

翻訳者の石堂清倫は満鉄調査部に巣くって碌を食んでいた左派勢力の代表格。出版元は「民主的」で知られたみすず書房。出版前年の1945年には日韓基本条約が結ばれている。同条約を標的とした日韓闘争を起点として60年代末期の学園紛争を経て70年安保闘争へと突き進んだ過激派が奏でた当時の社会風潮――混乱が自己目的化した政治の時代――を振り返ってみれば、本書出版の裏側に不可思議な政治的意図を感じてしまうのだが。

さて、解任されたスティルウェルの後任として中国に送り込まれたのが、第二次大戦を指揮したマーシャル米陸軍参謀総長(元帥)の懐刀として知られたA・C・ウェデマイヤー将軍だった。同将軍が書き残した『第二次大戦に勝者なし』(講談社学術文庫、1997年)は、スティルウェルとは違った視点から世界戦争を極めて深刻に振り返る。

ドイツに留学し、中佐時代の1941年にルーズベルト政権下で「勝利の計画」と呼ばれた戦争計画を立案したウェデマイヤーは、「日本の暗号解読の結果、ルーズベルト、スターク海軍作戦部長、そしておそらくはマーシャル陸軍参謀総長もまた、十二月七日(日本時間の八日)決行予定の日本軍の真珠湾攻撃について、事前に警告されていたと解さねばならない」と結論づけた。

そして、「われわれはドイツを破壊し、日本を打ち破る以外に明確な目的を持っていなかった」だけでなく、「戦後のことを考慮にいれずに、軍事的勝利を目指して戦った」。だからこそ「新しく、さらに危険な敵を育てあげる結果となってしまった」と、ルーズベルトとチャーチルという米英両国指導者の短慮、いわば思慮分別のなさを激しく糾弾する。

ウェデマイヤーに拠れば、「アメリカ参戦を正当づけるため、ルーズベルト大統領がつぎつぎと行った策略」と「チャーチルの三寸の舌先」との相乗効果によって最も利得を得たのはスターリンであり、共産主義勢力だった。いわば第二次世界大戦に際し連合国を勝利に導いた政治指導者として讃えられる2人は、じつはファシズムを遙かに凌駕する「新しく、さらに危険な敵」を「育てあげ」てしまったわけだ。まさに罪、万死に値する。

そう考えるウェデマイヤーが全面的に賛意を表すのは、日本の真珠湾攻撃直後に発表されたエール大学のN・スパイクマン教授の見解――「ドイツと日本を抹殺することは、ヨーロッパ大陸をソ連の支配に任せることになろう」――であった。これに中国大陸を毛沢東の支配に任せることになろう、を付け加えておきたいところだ。

欧州戦線における対独進攻の布陣を終えたことから、連合軍は次の標的に狙いを定め、東南アジア司令部を設置した。転機はノルマンディー上陸作戦の勝利である。かくて戦争の重点はヨーロッパ戦線からアジアへと移ることになった。日本危うし、である。

1944年初頭に同司令部参謀副長としてニューデリーに着任したウェデマイヤーは、同年10月末、スティルウェル(訳本は「スチルウェル」と表記。以下、同)の後任として中国戦線米軍司令官兼蔣介石付参謀に就く。だが、その姿勢は前任者とは全く違っていた。

前任者は「蔣介石を苦力階級の人物であるとし、高慢ちきで信用するにたらず、また、とうていいっしょに戦争をやっていける相手ではない、ときめつける」。だがウェデマイヤーは「小柄で、上品で、りっぱなからだに、人を射すくめるような鋭い黒いひとみと、人をひきつける微笑をうかべた蔣介石から、強い印象を受け」、「ソ連共産主義は“国民政府の倒壊によって生じる真空につけこむ勢力”となるので、アメリカとしては“蔣介石とその政府を支援するしか道はない”ことを認識する必要がある」と考えるのだ。《QED》