【知道中国 2929回】                     二五・十一・念六

  ――“もう一つの中国”への旅(旅171)

日本軍を中国大陸に縛りつけ継戦能力を奪うことで日米戦争を有利に展開させようと狙ったルーズベルトによって蔣介石の許に送り込まれはしたものの、肝心の蔣介石とソリが合わない。となれば米中双方の軍事協力による日本軍壊滅作戦が円滑・効果的に展開できるわけもなく、1944年秋、ルーズベルト大統領は蔣介石の意を受け入れた形でJ・スティルウェル将軍に与えていた中国戦線米軍司令官兼蔣介石付参謀の任を解いてしまう。

じつはスティルウェルは「一九四一年十二月七日 日本軍はハワイを攻撃」からはじまり、「(1944年)十月二十七日 夜明けに飛行場を去る。午前八時、中国・ビルマ・インド戦区の最後」で終わる中国戦線における日々を詳細に綴った『中国日記』(みすず書房、昭和41年)を残した。時に戦意昂揚し、時に意気消沈し、時に悲憤慷慨し、時に茫然自失し、時に辛吟慨嘆する心情を赤裸々に綴った夫人宛の数多くの手紙も収めてある。

1941年から44年秋までの日本軍に対するルーズベルト、米軍首脳陣、蔣介石と宋美齢夫人、その側近たち、国民党軍首脳、加えるに中国共産党などの幾重にも絡み合った利害関係(対日戦勝利という“大義”からはじまって、果ては個人的利権まで)を、スティルウェルは赤裸々に記す。あの戦争の裏側に秘められた米中双方の首脳陣の思惑だけではなく、現在にまで繋がってくる米中関係の“深い闇”を感じ取ろうとするうえで判断材料を提供してくれる貴重な資料といえるだろう。

 並外れた自信家として伝えられるスティルウェルの狷介な性格は、蔣介石に対する呆れるばかりに多彩な罵詈雑言の類に現われている。

――「ピーナッツ」「小男のでくの坊」「小男の成上がり者」「握り屋で、偏屈で、恩知らずのがらがら蛇」「愚鈍で強情」「チビのばか野郎」「底抜けの愚鈍さ」「小さながらがら蛇」「ゲシュタポと党諜報機関によって支えられた一党政府の長」「強欲、汚職、えこひいき、増税、幣制の崩壊、おそるべき人命浪費、あらゆる人権の冷淡な無視」「名義上の頭首」「その資格と業績に比して度はずれなアメリカでの宣伝によっておしたてられている」――

ここまで徹底してコケにされたら、蔣介石にしてみれば心穏やかでいられるはずもない。同情したくもなろうというもの。これでは、米中両軍による対日戦の効果的な遂行は、どだいムリな相談だろう。

 

国民党に対して「自分の見たところによって判断する。(国民党の実態は)汚職、怠慢、混乱、経済、租税、言葉と行為、退蔵、闇市場、敵との取引」と辛辣極まりないスティルウェルだが、共産党に対しては「共産党の綱領〔中略〕税金・地代・利子の引下げ。生産と生活水準の高揚。統治への参加。宣伝していることの実行」と、極めて好意的だ。だが、この判断が大間違いであったことは共産党による「人民解放」の実態が物語っている。

 

ビルマ北部戦線で苦戦を強いられた日本軍に対しては、「私の希望は、そのうちこの野郎ども(日本軍)を踏みつぶし、戦争を終わらせることです」「足の曲がったゴキブリどもがどうやってわれわれの平和な生活をぶちこわしたかを考えると、アジアの一つ一つの街灯にジャップの腸をまきつけてやりたくなります」と、憤怒と復仇の念を滾らせる。

 

マッカーサーは占領下の日本人を「アングルサクソンが45歳なら12歳」と蔑み、スティルウェルは日本軍兵士を「足の曲がったゴキブリども」と憎む。だが、これは彼らの抱く日本人と日本軍に対する名状し難い恐怖心の裏返しのような気もするのだが。

スティルウェルが綴っている日米開戦の日から1944年秋までの日本をめぐっての米、中、さらには英国、ソ連の“対日戦争勝利後”の中国をめぐっての虚々実々の駆け引きと同じように興味をそそられるのが、『中国日記』の出版に関わった人脈である。《QED》