【知道中国 2927回】                     二五・十一・念二

  ――“もう一つの中国”への旅(旅169)

これから数回に亘って滇緬戦争に関する7冊――アメリカの著作3冊、中国と日本のそれぞれ2冊――を紹介したい。アメリカの3冊の著者は1人が歴史家、残る2人は最高司令官として戦争を指導した2人の将軍。中国は1冊が戦場で戦った指揮官から下級兵士まで34人の回想録と後世の研究者の詳細な記述。日本の2冊は共に絶望的な負け戦を体験した2人の一兵卒――1人は後に小説家に、1人は後に企業人に――の悔恨の記録である。

これら著作は以前にも紹介しておいたが、その時期がバラバラだったこともあり、滇緬戦争に対する日・米・中の捉え方を関連づけて考えることができなかった。そこで今回は、その後に思い至った点などを加味し、滇緬戦争の全体像を俯瞰して捉えるよう努めてみた。

最初に取り上げる『失敗したアメリカの中国政策』(B・W・タックマン、朝日新聞社、1996年)がピューリッツァーを受賞した1972年に北京に乗り込んだニクソンは、「中国に対外開放を強く促し経済を発展させる。生活の豊かさを味わった国民は共産党に対し不信感を抱き、やがて共産党は支持を失い民主化に向かう」と、こんな未来図を描いていたはず。だが、それはトンデモナイ思い違いだった。アメリカは鄧小平の韜光養晦の術策にマンマと、そしてモノの見事に嵌ってしまう。中国は経済力を背景に急速に覇権国への途を突き進み超大国然と振る舞い、いまやアメリカを脅かし追いつめる。ならばニクソン訪中も、所詮は「失敗したアメリカの中国政策」だったことになはならないか。

とどのつまりアメリカという国は、こと中国政策に関するかぎり、国民党を捨て共産党政権を誕生させてしまったという失敗からなにも学んでは来なかったことになる。『失敗したアメリカの中国政策』の1972年におけるピューリツァー賞受賞は、皮肉以外のなにものでもない。とはいうものの、日本の中国政策だって胸を張れるわけはないのだが。

さて大東亜戦争に当り、日本は腹背に2人のアメリカ人将軍を迎え撃った。1人は太平洋の島々を飛び石伝いにやってきたマッカーサーであり、残る1人は蔣介石麾下のグータラ極まりない弱兵を90個師団の強兵に鍛え上げることを企図し、中国西南辺境で日本軍撃滅に執念を滾らせていたスティルウェルである。

2人は1945年9月2日、東京湾に浮かんだミズーリ号甲板で降伏文書にサインする重光外相の手元を、2人は傲然と見下ろしていた。さぞや2人はシテヤッタリと、共に北叟笑んでいたに違いない。

数年後、1人は前進を阻まれた老兵として朝鮮の戦場から消え去らざるをえなかった。残る1人はオブザーバーとしてビキニ環礁での原爆実験に参加したことが禍したらしく、ほどなく胃癌を患って世を去っている。

この本は、アメリカ軍中最高・最強の中国通とも伝えられるスティルウェルの人生を縦糸に、彼に関わった米中両国の政治・軍事指導者の動きを横糸に、アメリカの中国政策失敗の跡を検証している。大情況に立った詳細で鋭い分析には驚嘆し、感心するばかり。

無味乾燥で大仰な記述が排された行間には、生身の人間のドロドロした心の動きまでが鮮烈に浮かびあがる。上下2段組みで600頁余の巨冊ではあるが一気に読了した。言いたくはないことだが、先ずは素直に、アメリカの知性と知的執念に脱帽しておきたい。

スティルウェルが語学将校として中国に最初の一歩を踏み入れた1911年には、清朝崩壊への最後の一撃となった辛亥革命が起こっている。

以来、スティルウェルは軍務の大半を中国で送ることとなった。すぐれた中国語能力と強靭な肉体と旺盛な好奇心と鉄の意志を武器に、彼は中国の政治・軍事指導者から文化人、さらには最底辺の庶民までとも積極的に交わる。依怙地で傲岸不遜気味な個性を発揮しながら中国各地を歩き回り、中国人と中国社会のなんたるかを体感していった。《QED》