【知道中国 2926回】                      二五・十一・廿

  ――“もう一つの中国”への旅(旅168)

四川で最後の街となった重慶には、領事館や海関(税関)で働く外国人を除くと、主として「『一時滞在者』の『やま師』と、いろいろな伝道会の宣教師約三○人が住」み、「それらの伝道会には礼拝堂、学校・病院が併設され」ていた。

 

イザベラ・バードは『中国奥地紀行』の末尾に「第二十九章 中国のプロテスタント系伝道会に関する覚書」を置き、「プロテスタント(基督教)の活動家[宣教師]は妻も含めて二四五八人を数え、宣教師の行動力と基督教界の多くの教派を代表している。また、中国人プロテスタントの受聖餐者は八万六三二人に上っている」と記している。

 

「妻も含めて二四五八人」が多いか少ないかは別に、揚子江一帯ではイギリス、ドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、ベルギー、それに日本が加わり、グレートゲームは熾烈の度を加えることになる。であればこそ、「宣教師の行動力」が一層求められ、その数を急増させたであろうことは容易に想像がつく。

イザベラ・バードの旅から20年ほどが過ぎた1918(大正7)年、戦後になって吉田政権で大蔵政務次官などを務めた上塚司(明治22=1978年~昭和53=1978年)は長江を遡って四川から雲南方面を歩いている。悪戦苦闘の旅を記した『揚子江を中心として』(織田書店、大正14年)に雲南の山中の宿での体験が、次のように記されている。

「高原の秋の夜は靜に落ちて、吹き込む風が冬の樣に寒い。夕食後、爐を圍んで物語する」。と、「宿の主人は頻りと青島問題を論じ、歐州戰爭に就て聞」いてくる。こんな山間僻地になのに、なぜ青島やヨーロッパの情勢に関心を持つのか。どこから情報を入手しているのか。こう疑問を抱く上塚の前に、宿の主人は『基督敎家庭新聞(The  chinese  Christian  Intelligenger)』を差し出す。そいつを引き取って「内容を檢すれば、緊要敎務、戔言、敎會新聞、世界時事等に分かちて、一週間の事實を概報し、殊に緊要敎務の部には、靑島問題の不當を鳴らし、排日、排日貨を公然と煽動して居る」ではないか。

上塚は「恐るべきは、布敎の美名に隱れて野心を遂げんとする者の行ひである。之を以て唯一の羅針盤とも仰ぐ(恐らくは之れ以外の印刷物は此の村には來るまい)雲南山中の人々には、此の煽動の文字が如何に強く響くであらうか」と直感し、「彼等は此れを村中の文字階級に廻讀し、廻讀されたる事柄は、無文字階級に口傳せられ、遂に強い強い輿論となつて現れて來る。基督敎國民の煽動! 夫れは有り得べからざる事と信じて居たが、今は早や疑ふべくも無い」と憤慨する。やはり伝道・布教は宣伝・煽動と同時並行である。

 

かくて「A church and Timely  news paper  pulisbedin  Shanghai  at  13 Peking Road(基督敎家庭新聞毎日曜發行、一年購讀料一元二角)には、明かに、憎むべき煽動の文字と虛構の文字が滿されて居る」と、悲憤慷慨の態だ。晏如とはしていられない上塚は、「夜半孤り基督敎國民の奸策を思ふて寝ねず」と煩悶するばかりであった。

 

やはり「恐るべきは、布敎の美名に隱れて野心を遂げんとする者の行ひであ」り、「憎むべき煽動の文字と虛構の文字」であり、「基督敎國民の煽動」だった。であればこそ「基督敎國民の奸策を思ふて寝」られないのも分る。蜘蛛の巣の張る薄暗い天井を睨みつけながら、さぞや沈思黙考・切歯扼腕・自問自責・焦燥激怒・怒髪衝天・・・100年ほどの時空を超え、上塚の歯ぎしりの音が聞こえてくるようだ。

 

だが、これが「布敎の美名に隱れて野心を遂げんとする」西欧列強の常套手段であり、であればこそ大アジア主義などを掲げ西欧列強のアジア支配を難詰しているだけでは、勝ち目はなさそうだ。実利の伴わない理念は、理念で巧妙に装われた実利に敵うわけがない。これが国際政治の、掛け値なしの現実というものだろう。昔も今も、いや将来も。

 

ここらでイザベラ・バードを切り上げ、滇緬戦争に関する著作に移りたい。《QED》